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30年日本史00809【鎌倉末期】長門探題降伏

 以上述べてきたとおり、鎮西探題を滅亡させたのは少弐・大友の2人ということになります。一旦幕府方に寝返った少弐・大友だけが恩賞にあずかることとなり、菊池はそこから漏れてしまったのです。菊池の立ち位置はあまりにかわいそうですね。
 ここで話を少し飛ばして、九州御家人たちの恩賞がどうなったかを見ていきましょう。
 鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は倒幕に功労のあった者たちを京に呼び寄せ、論功行賞を行います。このとき、菊池武時・武重父子の活躍をアピールしてくれたのが、楠木正成でした。
「今回の倒幕で功績を挙げた者は多くおりますが、ここに並んでいる者は皆、命を拾った者ばかりです。たった一人、帝のために命を賭して落命した菊池武時こそが、第一の忠義者と呼ぶにふさわしいと存じます」
 この言葉に後醍醐天皇は納得し、武時の嫡男である武重に肥後守の位を授けました。武時が武重を生かしたことが、ここに実を結んだわけです。
 しかし菊池家の苦難はまだ始まったばかりです。この後南北朝の動乱が幕を開け、さらに北朝内での内紛も起き、天下は三分されて大混乱の時代を迎えるのですが、そうした中で菊池家だけは主君を一度も裏切ることなく後醍醐天皇やその子孫に尽くすこととなります。一方、少弐家は主君をコロコロと変え、菊池家は少弐家にひどく翻弄されることとなるのです。
 今も菊池神社(熊本県菊池市)には南朝方に仕えることを一族に誓約させる内容の「置文」(家訓のようなもの)が残っており、武重の血判が押されています。これは現存する日本最古の血判であり、血判という文化がこの頃始まった可能性も指摘されています。
 こうした一貫した美学もあって菊池氏は大人気の武将となり、様々な伝説が語り継がれることとなります。今も熊本県菊池市役所が製作した「菊池一族公式ウェブサイト」で、数々の伝説やそのゆかりの地の観光案内が紹介されています。
 さて、ここまで鎮西探題滅亡を見てきましたが、もう一つの長門探題の方に目を転じてみましょう。
 長門探題の金沢時直は、六波羅探題が危ないと知ってこれに加勢しようと海路で京に向かいましたが、周防国鳴門(山口県柳井市)を通っていた頃に「六波羅も鎌倉も滅亡した」との知らせが届きました。
「かくなる上は鎮西探題と合流しよう」
と博多へ向かうのですが、赤間(山口県下関市)に着いたところで今度は鎮西探題滅亡の知らせが届きます。
 時直は元弘3/正慶2(1333)年5月26日にやむなく少弍に降伏し、かくして鎌倉幕府の組織はことごとく滅びたのでした。

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