見出し画像

30年日本史00790【鎌倉末期】千寿王失踪と竹若丸横死

 幕府の西の要である六波羅探題が滅びたところまでお話ししました。残るは鎌倉です。
 元弘3/正慶2(1333)年5月2日。「高氏が幕府を裏切った」という知らせはまだ鎌倉まで届いていませんでしたが、この日に高氏の嫡男で当時2歳の千寿王(せんじゅおう:後の足利義詮:1330~1367)が行方不明になったことから、幕府は
「さては謀反か」
と騒ぎ始めました。人質として鎌倉に留め置かれたはずの千寿王が突然鎌倉を脱出したわけですから、これは謀反の準備だと疑うのは当然でしょう。最大勢力を誇る御家人・足利家が裏切ったとなれば、幕府にとって大打撃です。
 幕府は慌てて長崎思元(ながさきしげん:?~1333)と諏訪直性(すわじきしょう:?~1333)を京に派遣し、「足利が謀反のおそれあり」という情報を六波羅に伝えようとしました。ところがその途中、二人は駿河国高橋(静岡市清水区)で六波羅からの早馬とすれ違います。その早馬は、
「名越高家が戦死し、足利高氏が裏切った」
との知らせを鎌倉に届けようとしていたのです。二人はもはや京へ赴く必要はなくなったと考え、鎌倉にとって返すこととしました。
 ちょうどその頃、高氏の庶長子・竹若丸(たけわかまる:1324~1333)は、伯父の覚遍(かくへん:?~1333)とともに密かに京に上ろうとしていました。「庶長子」というのは、側室との間に産まれた子であって、嫡男よりも年上の子という意味です。
 高氏は正妻に遠慮してか、この庶長子を伊豆山神社(静岡県熱海市)に住まわせていました。竹若丸は父・高氏が決起したことを知り、伊豆山神社にいては命が危ないと思って京を目指したものと思われます。
 竹若丸と覚遍は、浮島ヶ原(静岡県沼津市)で運悪く長崎・諏訪と鉢合わせしてしまい、斬られてしまいます。高氏は妻や嫡男を助けるためにあらかじめ避難先を決めるなど工夫をしていたのですが、庶長子のことまでは配慮していなかったようですね。
 さて、嫡男たる千寿王はというと、足利家の家臣たちに連れられ鎌倉を脱出し、武蔵国(埼玉県)へと向かっていました。記録にありませんが、高氏の妻の赤橋登子(あかはしなりこ:1306~1365)もまた千寿王と行動を共にしていたと考えられます。登子は執権・赤橋守時の妹ですから、夫と兄の戦いに巻き込まれたわけで、ひどく悩ましい立場だったことでしょう。
 千寿王と登子が武蔵国を目指したのは、上野(群馬県)を拠点とする有力御家人と合流するためでした。いよいよ足利尊氏、楠木正成と並ぶもう一人のヒーロー、歴史に名高い新田義貞の登場です。

この記事が参加している募集

#日本史がすき

7,318件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?