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30年日本史00042【縄文】坪井正五郎、鳥居龍蔵、山内清男*

 モースの弟子として、佐々木忠次郎と石川千代松を紹介しましたが、この二人はいずれも動物学者です。残念ながら、動物学者モースの門下から考古学者が育つことはありませんでした。日本で考古学をリードしたのは、佐々木と石川の教えを受けた坪井正五郎(つぼいしょうごろう:1863~1913)です。つまり坪井はモースの孫弟子ということになります。
 坪井は東京大学理学部で動物学を学びましたが、その関心は考古学へと移っていきました。しかし、当時の帝国大学令では
「帝国大学は国家の須要に応ずる学術技芸を教授し……」
とあり、国家のニーズに応じた学問を研究しなければなりませんでした。
 先史時代の日本人がいかなる生活をしていたのかを研究することは、当時、古事記や日本書紀の記述を否定することになりかねず、国家から必要とされないものでした。そこで坪井は、考古学ではなく「人類学」を標榜し、文部省にその必要性を訴えていきました。
「人類学は、原始時代の人類を研究することで日本民族の優位性を証明し、国威を発揚するものだ」
といって理論武装したのです。そのため、坪井は考古学者ではなく人類学者として記憶されています。
 こうした坪井の姿勢を批判する人もいるようですが、当時としては大日本帝国の国威発揚に資する学問しかその存在意義を認められなかったわけですから、「とにかく嘘でもいいから予算を獲得する」という坪井の手法は、結果的に考古学の発展につながったと見て良いと思われます。坪井の著作をいくら読んでも、国家主義的なイデオロギーは見えて来ないので、国威発揚というのは坪井自身の信念ではなく、予算獲得のための方便だったと思われるのです。
 さて、坪井の弟子として人類学・考古学を発展させたのが鳥居龍蔵です。鳥居は、直良信夫の明石人骨を否定した人物として一度登場しましたね。尋常小学校中退ながら文学博士になり、大陸での危険なフィールドワークを重ね、東京帝国大学の助教授にまでなった鳥居の生涯はなかなか破天荒なもので、数々の伝記が出版されています。
 そして鳥居の弟子から、縄文研究の父と仰がれる考古学者が現れました。山内清男です。本稿では、明治大学による岩宿遺跡発掘のさなか、嫌がらせに現れる東大教授として取り上げましたが(00013回参照)、実は山内清男は縄文土器研究の第一人者なのです。
 昭和6(1931)年に、縄文土器の文様が細い縄を転がしてできる模様であることを発見したのも山内ですし、昭和12(1937)年に縄文土器を年代ごとに6種類(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)に分類したのも山内です。
 モースの系譜は間接的ではありますが、現代の考古学にもつながっているのです。

岡本太郎がハマった火焔型土器。新潟県十日町市と長岡市でよく出土する。これは十日町市博物館の売店にあった火焔型土器(国宝)のレプリカ。実物大は92600円だが井浦新は購入したらしい。

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