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30年日本史00013【旧石器】前期旧石器存否論争

 昭和24(1949)年10月29日。杉原は日本考古学協会総会で岩宿遺跡の発掘結果を発表しましたが、学会員たちの反応はひどく冷ややかでした。質問は一切なし。みんな、杉原の研究を疑ってかかっていたようです。
 杉原たちはこれに懲りず、昭和25(1950)年4月、岩宿で第2回本調査を行いました。その調査のさなか、縄文時代研究の第一人者、東京大学山内清男(やまのうちすがお:1902~1970)講師が岩宿に現れました。山内はたまたま近所の遺跡を調査中でした。
 山内は、並べられた出土品を見て
「こんなものは旧石器ではない。発掘をやめて帰りたまえ」
と叫んだといいます。東大と明大がどれほど険悪だったを窺い知るエピソードですね。
 そういうわけで、岩宿遺跡の発見は、速やかに学界に受け入れられたわけではありませんでした。昭和26(1951)年に東京都板橋区の茂呂(もろ)遺跡が発見されたことを皮切りに、その後次々と1万年以上前の遺跡が発掘されました。その段階に至って始めて
「日本にも旧石器時代があった」
ということが定説となっていったのです。世紀の大発見というのは、時間をかけて徐々に受け入れられていくものなのですね。
 さて、こうして「1万年以上前の日本にも人類がいた」ということがようやく知られるようになったわけですが、その後、一大論争が巻き起こります。「前期旧石器時代存否論争」です。つまり「前期旧石器時代は存在するか否か」という論争です。
 旧石器時代の遺跡は次々発掘されていましたが、考古学者たちは「3万年前の壁」にぶつかっていました。「3万年より前の遺跡が見つからない」というのです。
 欧米の考古学では、3~4万年前以降は「後期旧石器時代」と呼ばれているため、日本でもそのような分類がなされることとなりました。言い換えると、日本で見つかる遺跡は、後期旧石器時代のものばかりで、前期旧石器時代のものが一切見つからないということです。
 芹沢長介は、「前期旧石器時代はある」つまり「3万年以上前の日本にも人類は住んでいたはずだ」と主張しました。一方、杉原荘介は「前期旧石器時代はない」つまり「3万年以上前の日本には人類は住んでいなかった」と主張しました。
 芹沢と杉原。二人の対立は日に日に深刻になっていきました。
 そもそも、杉原と芹沢は、大学に所属していないアマチュア考古学者への接し方が決定的に異なっていました。芹沢が彼らと対等に接する一方で、杉原は彼らをひどく蔑視していたのです。
 前述したように、杉原が相澤忠洋の業績を広報してくれなかったことで、芹沢は相澤に負い目を感じると同時に、杉原との間にわだかまりを感じていました。それでただでさえ隙間風が吹いていたところに、前期旧石器時代存否論争が追い討ちとなって、二人はひどく対立するようになったというわけです。

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