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30年日本史00829【建武期】井出の沢の戦い

 建武2(1335)年7月18日に上野国に入った時行軍は快進撃を続けます。次々と勝ち進むのですが、残念ながら個々の戦いの日付や詳細な経緯について記録がなく、何も分かっていません。箇条書きのようになってしまいますが、時行の快進撃を一通り紹介しておきましょう。
・鏑川の戦い(群馬県下仁田町か)で岩松四郎に勝利
 岩松というのは、新田氏の中の一氏族です。岩松四郎(いわまつしろう)がどんな人物かは分かりませんが、上野国で一定の勢力を持っていた武士のはずです。
・久米川の戦い(東京都東村山市)で渋川義季に勝利
 渋川義季(しぶかわよしすえ:1314~1335)は上野国渋川郷(群馬県渋川市)を領地とする渋川氏出身で、直義の家臣の一人です。
・女影原の戦い(埼玉県日高市)で渋川義季・岩松経家を敗死させる
 岩松経家(いわまつつねいえ:?~1335)もまた直義の家臣です。渋川・岩松という有力家臣2人が共に自害に追い込まれたのですから、時行軍の勢いは相当なものだったのでしょう。ちなみに直義は渋川義季の忠勇に感激し、
「世の為に 消えにし露の 草の陰 思ひやるにも 濡るる袖かな」
という歌を遺族へ贈ったとのことです。
・小手指原の戦い(埼玉県所沢市)で今川範満を敗死させる
 今川範満(いまがわのりみつ:?~1335)も直義の家臣で、後に駿河国を支配する戦国大名今川氏の祖先に当たります。
 それにしても、久米川といい小手指原といい、新田義貞が鎌倉幕府と戦った場所と全く同じところで両軍は戦ったのですね。武蔵国で大軍同士が戦える場所は限られていたのかもしれません。
・武蔵国府の戦い(東京都府中市)で小山秀朝を敗死させる
 小山秀朝(おやまひでとも:?~1335)も直義の家臣で、下野国小山(栃木県小山市)を領地とする武士です。
 家臣が次々と敗北しているのを聞いた足利直義は、遂に自ら出陣します。
 7月22日。井出の沢(東京都町田市)で直義軍と時行軍の戦いが起こりますが、時行はこれにも勝利し、直義は鎌倉を捨てて西に逃亡することを決めました。
 この井出の沢の戦いが起こった場所には、戦闘での死者を弔うため「菅原神社」が建てられました。菅原神社の敷地は「井出の沢古戦場」として整備されています。

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