見出し画像

30年日本史00465【平安末期】鶴岡八幡宮と大倉御所*

 治承4(1180)年10月12日には鶴岡八幡宮の造営が始まりました。由比ヶ浜にあった八幡宮が現在の位置に移されたわけです。
 八幡神(応神天皇)といえば戦の神ですから、武士の頂点を目指す源氏の棟梁・頼朝としては、鎌倉を拠点に活動するからにはその中心に八幡神を祀る八幡宮が必要だと考えたのでしょう。
 さらに鶴岡八幡宮の正面には、幅の大きな参道が整備されました。当時、ちょうど政子が妊娠していたことから「産道」と「参道」をかけて、参道を整備することでお産を軽くしようという意図があったといわれています。この大きな参道は現在「若宮大路」と呼ばれており、現在も鎌倉のメインストリートとなっています。
 ちなみに現在は、鎌倉駅から鶴岡八幡宮に続く「小町通り」も有名で、食べ歩きのできる街道として観光客に愛されていますが、小町通りは明治時代に整備されたもので、実は歴史の浅い通りのようです。
 鶴岡八幡宮の境内には、頼朝が大庭景義に命じて作らせた「源平池」と称する左右2つの池があります。大庭兄弟のうち弟・景親は平家方についてしまったのですが、兄・景義は頼朝と行動を共にしていたのです。
 源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ、それぞれ浮かんでおり、それぞれ産(三)と死(四)を表すといわれています。つまり、源氏が繁栄し、平家が滅亡するように祈りを込めたというのです。後付けの可能性もありますが、事実だとしたら怖い話ですね。
 源氏池と平家池をつなぐ水路に、石造の太鼓橋が架けられました。その太鼓橋は残念ながら関東大震災で崩落してしまい、現在は2代目の橋がかかっています。
 ちなみにこの太鼓橋は、当時は朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれました。鎌倉時代中期になると、北条氏が多くなり過ぎて「極楽寺北条氏」「金沢北条氏」などいくつかの家に分かれるのですが、そのうちの一つに「赤橋北条氏」があります。この一家が赤橋の近くに居を構えていたからといわれています。
 同年12月12日には、鎌倉の大倉郷という場所に頼朝の邸宅が完成しました。「大倉御所」と呼ばれていますが、これが幕府の執務場所を兼ねているので「大倉幕府」とも呼ばれます。
 この大倉幕府が出来たことをもって鎌倉幕府が成立したと提唱する研究者もいます。
 大倉幕府跡は現在、清泉小学校となっており、近代に鎌倉青年団が建てた石碑のほかには当時を偲ばせるものは何もありません。
 ちなみに、大倉幕府はその後火事で全焼し、若宮大路の近くの「宇都宮辻子」と呼ばれる場所に移転することとなります。こちらも石碑があるだけです。

清泉小学校前にある、鎌倉青年団が建てた大倉幕府の石碑。鶴岡八幡宮にも近い。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?