見出し画像

30年日本史00419【平安後期】源頼政登場

 藤原信頼が決起のために最初に声をかけたのは、源義朝でした。
 源義朝と平清盛は、ともに保元の乱で勝利した武家の棟梁でありながら、人事上、大きな差をつけられていました。義朝としては、清盛ばかりを登用する信西に恨みを抱いていたわけです。信頼から「共に信西を打倒しよう」と持ちかけられ、義朝はこれに乗りました。
 さて、ここで源氏の長老である・源頼政(みなもとのよりまさ:1104~1180)を紹介しなければなりません。
 頼政は義朝よりも19歳年上の長治元(1104)年生まれ。源氏一門の長老的な存在でした。頼政の4代祖先(頼光)と、義朝の5代祖先(頼信)とが兄弟ですので、義朝からみると非常に遠い親戚ということになります。
 頼政といえば、鵺(ぬえ)退治の伝説が有名です。鵺とは、猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾を持つとされる伝説上の妖怪で、平安時代の人々に恐れられていました。
 仁平3(1153)年、近衛天皇の住む清涼殿に、毎晩のように不気味な鳴き声が響き、近衛天皇はこれに脅えるあまり、病の床についてしまいました。そこで、頼政が深夜に御所の庭をパトロールすることとなります。
 深夜、頼政は上空から不思議な鳴き声を聞きました。空を見ても、黒煙に覆われていて鵺の姿は見えません。姿が見えないながらも、頼政は声のするように矢を射かけました。すると、悲鳴とともに落下する音が聞こえました。音のした方に行くと、まさに伝説の通りの姿形をした怪物が倒れていたのです。これにより、近衛天皇の体調は回復し、頼政は褒美として「獅子王」という刀を賜ったといいます。
 京の人々は、鵺の祟りを恐れてその死体を舟に乗せ、鴨川に流しました。鴨川から淀川を下った舟は、淀川沿いの都島(大阪市都島区)に打ち上げられました。都島の人々は鵺塚を作り、この死体を丁重に葬ったといいます。また一説には、大阪湾に出て芦屋(兵庫県芦屋市)に打ち上げられたともいいます。現在も都島と芦屋それぞれに鵺塚が残っています。
 この鵺退治のエピソードは後世に作られたストーリーでしょうが、こんな伝説が語り継がれるほど、頼政は庶民から人気があったということでしょう。
 さて、義朝はその頼政に対して、信西打倒に参加するよう呼びかけました。頼政は「源氏の長たる義朝に従う」と回答しました。順調に味方が増えています。
 藤原信頼はさらに、二条親政派であった藤原経宗・惟方を誘いました。信頼が後白河上皇に取り入っている一方、藤原経宗・惟方は二条天皇に取り入っているわけですから、両派は本来反目しているはずですが、「信西憎し」という点では共通しています。経宗・惟方もまた、これに参加を決めました。
 時折りしも、平治元(1159)年12月4日、平清盛が一党を率いて熊野神宮(和歌山県新宮市)に参詣するため、京を出発しました。信頼はこれぞチャンスとばかりに軍事行動を起こします。「平治の乱」の始まりです。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?