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30年日本史00855【建武期】室津軍議

 打出浜での合戦に敗れた尊氏らに、赤松円心がこう進言しました。
「いま新田軍を破って都に攻め上ったとしても、疲れた軍勢で都を守るのは難しいでしょう。しばらく陣を西国に移して、十分用意してから再び上洛するべきです。摂津・播磨両国は私が守り、敵を防いでご覧にいれますから、どうぞ西国にお移りください」
 なんと、自分が盾となって敵を防ぐというのです。この円心のアドバイスを受け、尊氏は湊川から船に乗り、室津(兵庫県たつの市)まで退却しました。
 尊氏はこの時点でもまだ都に攻め上るという選択肢を捨てきれなかったらしく、未練がましく室津に2日滞在しています。
 この室津で行われた軍議は、足利家が天下を取る上で最も重要な局面となりました。軍議が始まると、九州から馳せ参じた大友氏泰(おおともうじやす:1321~1362)が尊氏に
「このままでは合戦が上手くいくとは思えません。船がたくさんありますから、まずは筑紫(福岡県)にお越しください。九州の軍勢は数多く味方につくはずですから、その上で再び京を攻めればよいのです」
と薦めました。尊氏も恐らくは渋々といった気持ちだったでしょうがこれに同意し、足利軍一同は300艘の船に20万人が乗って九州へ落ち延びることとなりました。
 この撤退は、相当に勇気の要る決断だったに違いありません。というのも、都を落ちて西国に落ち延びた者がその後再び都を奪回したケースは、歴史上全くなかったからです。平宗盛しかり、木曽義仲しかり、源義経しかりです。西国への撤退はすなわち没落を意味しているのです。
 しかし足利家の兵たちは
「一旦敗北して落ち延びて勝利した頼朝様の例がある。縁起が良い」
などと述べ、励まし合いました。頼朝も石橋山で敗北し、一旦は安房に退却したことがあったではないか、というのです。
 この尊氏の九州撤退は、結果的に大成功でした。確かにこれまで九州に逃れた武将が再起を図った例はありませんが、それは平宗盛も木曽義仲も源義経も多くの支持層を既に失っていたためでした。今回は、九州にも建武政権に不満を持った多くの武将がいたわけで、彼らが尊氏の味方となり、尊氏はさらに多くの軍勢を従えて再び上洛することができるのです。
 太平記によると、この撤退中に様々な悲劇があったといいます。一艘の船に2千人が乗ろうとしたところ、船が沈んでしまい、それを見た他の船の者たちは、皆が乗り切らないうちに次々と出航してしまったのです。乗り遅れた兵たちは鎧や衣服を脱ぎ捨てて船に取りつくようにして逃亡を図りましたが、その者たちは船中から刀で斬り殺されたり櫓で打ち落とされたりしたとのことです。

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