30年日本史00663【鎌倉中期】宮騒動
5代執権時頼は、祖父・泰時の路線を受け継いで御家人たちの融和を図りますが、御家人たちの中には、前将軍・九条頼経に接近して執権を追い出そうとする勢力がいました。名越氏と三浦氏です。
名越朝時は寛元3(1245)年4月6日に既に他界していましたが、その子の光時(みつとき)もまた頼経の覚えがめでたく、
「自分は義時の孫だが時頼は曾孫」
などと放言し、夜な夜な頼経に謀叛を薦めていたといいます。
そして寛元4(1246)年5月24日夜。この光時の謀反が発覚したとの噂が広まりました。ところが戦乱に発展することはなく、翌5月25日には光時は罪を認め出家し、6月1日には光時の弟・時幸(ときゆき:?~1246)が自害し、事態は終息しました。
6月13日には光時が伊豆国江間郷(静岡県伊豆の国市)に流罪と決定され、光時は大人しくそれに従いました。
これまで、反逆事件は戦闘を伴うことが多く、和田合戦のように市街戦となって多くの犠牲を出すケースもあったのですが、時頼は切り崩し作戦によって反乱軍の味方が減るように仕向け、戦闘を回避したのではないでしょうか。なかなかの謀略家ですが、できるだけ死者を出さずに対応できている点が評価できます。
名越の反逆は、前将軍・頼経を慕う者が起こしたものでした。かくなる上は、頼経を鎌倉に置いておくわけにいきません。7月11日、頼経は鎌倉を追放され、京の父親(九条道家)のもとに送還されていきました。
しかし、これで騒動の種が完全になくなったわけではありません。8月1日、御家人たちは頼経を京の九条邸に送り届けますが、三浦泰村の弟・光村(みつむら:1205~1247)は頼経の傍にすがって涙を流し、
「必ずやもう一度、頼経様を鎌倉に迎え入れたい」
と述べました。光村は心底から頼経を思慕し、北条を除こうとしていたのです。
息子が鎌倉追放の憂き目に遭った九条道家は、
「自分は名越の一件とは無関係である」
とする起請文を幕府に提出して無実を主張しますが、幕府は道家もまた決起計画に加担していたものと考えていました。8月27日、時頼は朝廷に「徳政」を申し入れます。「徳のある政治を行ってほしい」ということですが、要するに婉曲に道家の排除を要求したものでした。
道家は関東申次を解任され、後任には西園寺実氏が就任することとなりました。こうして九条家は没落し、西園寺家が台頭していくこととなります。この一連の騒動を「宮騒動」と呼びます。
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