30年日本史00771【鎌倉末期】千早城の戦い 断水作戦の失敗
護良親王になりすました村上義光の首は、六波羅に送られますが、そこですぐにこの首が護良親王でないことが発覚しました。二階堂道蘊は慌てて本物の護良親王を求めて高野山に押し寄せ、捜索を続けましたが遂に発見することができませんでした。
二階堂軍はそのまま楠木正成の立て籠もる千早城へと向かいました。ここからはいよいよ千早城攻めを取り上げていきましょう。
元弘3/正慶2(1333)年2月27日。幕府軍による千早城への攻撃が始まりました。総大将は北条一族の出身である大仏貞直です。千早城に立て籠もる楠木軍は僅か1千人であるのに対し、幕府軍は180万人もの大軍でした。といっても、これは「太平記」の記述なので誇張があるでしょう。
数を頼みにする幕府軍は、敵を侮って土の壁を登り始めますが、楠木軍はなんと城壁の上から糞尿を降り注いで来ました。鎧が糞まみれとなり、幕府方の兵は次々と退却し、泣きながら鎧を洗ったといいます。
そのうち、糞尿の蓄えがなくなったと見え、幕府方は再び土を登り始めました。すると今度は大きな岩を落とされ、たった1日で数千人が戦死しました。軍奉行の長崎高貞(ながさきたかさだ:1309~1334)が死傷者を記録しようとしたところ、その名前を全て記録するのに12人の書記が作業して3日かかったといいます。
総大将たる大仏貞直は、千早城が思った以上の難物であることを認めざるを得ませんでした。いたずらに被害を出さないためにもじっくりと作戦を練ろうと考えた貞直は、
「今後は総大将の許可なく合戦を行った者は罪に問う」
とのお触れを出しました。これにより、戦いはしばらく休戦状態となりました。
さて、大仏貞直が考えた作戦は、上赤坂城の戦いで阿蘇治時がとった作戦と同じものでした。水路を断つというものです。千早城の東側には谷川があり、貞直は
「楠木軍はここから水をとっているに違いない」
と見定めました。
貞直の指示を受けた名越時見は、3千人の兵を率いて谷川を見張り、城から降りてくる敵兵を見つけ次第討とうとしました。ところが、待てど暮らせど敵兵はやって来ません。それもそのはず、千早城には「五所の秘水」という湧き水があり、谷川に水を汲みに行く必要がないのです。千早城は少人数で立て籠もるのに適した名城だったといえるでしょう。
名越軍は、当初は毎晩緊張しながらしっかりと見張りをしていましたが、だんだん気が緩んで来ます。そのチャンスを逃す楠木正成ではありません。ある夜、楠木軍の約300人が闇に紛れて城から下りて行き、名越軍に斬りかかりました。名越軍は大混乱に陥って退却し、楠木軍は名越軍の旗や大幕などを奪って城へと引き上げて行きました。
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