30年日本史00039【縄文】モース来日*
エセックス研究所で働くモースは、研究の仕事のかたわら、講演会でも活躍するようになりました。
モースの講演は大いに評判を呼びました。モースは人を楽しませる話術の天才だったようです。加えて、モースには「両手書き」という特技がありました。例えば、犬の上半身を右手で書きながら同時に下半身を左手で書き、それらをぴったりつなげることができるのだそうです。また、右手で絵を描きながら左手で字を書くこともできたそうです。講演会のチケット1400枚がたった1時間で売り切れたこともあったそうですから、モースの講演がいかに人気だったかが分かります。
さて、そのモースが渡日を決意するきっかけとなる出来事があったのは、36歳のときでした。講演で訪れたサンフランシスコで、「日本はシャミセンガイが豊富に生息している」との情報を得たのです。シャミセンガイは太古から現在に至るまで、その形をほとんど変えなかった動物です。その秘密を探るべく、モースは長年シャミセンガイを研究してきました。
当時、日本は開国したばかりです。モースは「いつか日本に渡ってみたい」と夢見るようになります。
1877年。モースは銀行家からの援助を受け、ようやく日本に渡る算段を整えました。17日間に渡る航海を経て、6月17日、モースは横浜港に降り立ちました。貝の収集のため、3ヶ月間の滞在を予定していました。モースにとっては見るもの全てが珍しく、ひどく興奮して眠れなかったと回顧録に記されています。
来日の翌々日、6月19日にモースは文部省に挨拶に行くため、横浜から汽車に乗り込みました。東京(新橋)-横浜間の汽車はこの頃開通したばかりです。大森駅を出てすぐ、モースは線路脇に白い貝殻が散らばっているのを見つけました。
これこそが縄文研究の原点となった大森貝塚です。しかしながら、大森貝塚で本格的な発掘が始まるのは3ヶ月後のことです。
文部省でモースを待っていたのは、学監に就任したばかりのお雇い外国人、ダビッド・モルレー(1830~1905)でした。モルレーはアメリカの教育者で、日本での教育制度の確立に尽力した人物です。モルレーはモースを温かく出迎え、
「今度、日光に旅行に行く予定なんだが、良かったら一緒に来ないか」
と誘いました。
この日光旅行もまた、モースに強いインスピレーションを与えたらしく、モースは回顧録「日本その日その日」の中で2つのチャプターを費やして日光旅行について記しています。
モースは日光の諸寺院の建築を見学するだけでなく、田舎の人々の生活を観察してスケッチし、さらに中禅寺湖ではシャミセンガイやマメシジミを採集しています。
さて、モースが日光を満喫している頃、文部省では役人たちが必死に頭をひねっていました。彼らは、モースをどうにかして日本に引きとめようと画策していたのです。
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