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30年日本史00302【平安中期】承平天慶の乱 将門死す

 天慶3(940)年2月1日。将門が兵を各国に帰したときを見計らい、藤原秀郷は平貞盛とともに挙兵しました。
 藤原秀郷・平貞盛軍は下野で将門軍を破り、さらに川口村(茨城県八千代町)まで将門軍を追跡し、追い討ちを行いました。
 2月14日。一旦敗走した将門は軍を建て直し、北山(茨城県坂東市)で藤原秀郷・平貞盛軍を迎え討ちました。これが将門の最後の戦いとなります。
 当時の合戦は矢で行うのが主流でしたから、当然、追い風が吹いて矢の飛距離が伸びるほうが圧倒的に有利となります。
 戦闘当初は将門に追い風が吹き、有利だったといいます。しかし途中で風向きが変わり、藤原秀郷・平貞盛側への追い風となりました。
 この戦闘のさなか、将門のこめかみに矢が当たり、将門は戦死しました。
 結果的に、征東大将軍・藤原忠文が坂東に到着する前に戦乱が終結したことになります。主役となるはずの忠文の見せ場がないまま、反乱は鎮圧されました。
 将門の首は都に運ばれ、さらし首となりました。
 後世、この首が突然喋り出し、坂東にある胴体を求めて首が宙を飛んでいったとの伝説が広まりました。宙を飛んでいったこの首は、結局坂東まで行くことなく途中で力尽きて落ちたといわれています。
 この首が落ちたとされる場所が将門の首塚なのですが、将門人気はものすごく、全国各地に首塚が何個もあるのです。そのうち最も有名なのが東京都千代田区の首塚ですね。
 この首塚をめぐって様々な怨霊伝説が取り沙汰されることとなります。
 昭和元(1926)年。大蔵省の庁舎建設のためにこの千代田区の首塚を取り壊そうとしたところ、早速整爾(はやみせいじ:1868~1926)大臣を始め職員が次々病死しました。
 さらに戦後、GHQが区画整理のため首塚を取り壊そうとしたところ、ブルドーザーが転倒し運転手が死亡したとのことです。どこまで本当か分かりませんが。
 さて、将門の乱はこうして終息したのですが、一方西海の藤原純友はどうなったのでしょうか。
 天慶3(940)年8月。讃岐介・藤原国風(ふじわらのくにかぜ)が純友と対決しますが、大敗を喫します。純友は讃岐国府(香川県坂出市)を焼き討ちし、国風は淡路に逃れました。
 朝廷は小野好古(おののよしふる:884~968)と源経基を追捕使に任命しました。将門の乱をより混乱させたあの源経基です。
 将門が死んだ後も、藤原純友はまだまだ勢いを失っていないようです。

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