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30年日本史00568【鎌倉前期】曽我兄弟の仇討ち 五郎の最期

 翌朝、縄につけられた五郎は、頼朝から直々に尋問を受けました。五郎は頼朝に、これまでの経緯を一通り説明しました。頼朝は
「父の仇を討ちたいという思いはよく分かった」
と納得しつつ、五郎に質問します。
頼朝「罪のない他の多くの御家人を死傷させたのはなぜか」
五郎「陣中でこのような謀反を起こす以上、御家人たちとは敵対せざるを得ない覚悟でありました」
頼朝「豪勇のお前がなぜ五郎丸に捕縛されたのか」
五郎「履物を扱う下僕であると思って油断したからです。運の尽きるときとはこのようなものでしょう」
頼朝「なぜ私の傍にまで攻め上ってきたのか」
五郎「親家が敵を後ろにして逃げ込んだためであり、その理由は親家にお尋ねください」
頼朝「確かに親家の振る舞いはけしからぬ。しかし、そもそも私に対して特別な恨みは持っていたのか」
五郎「どうして恨みがないと申せましょう。そもそも祖父の伊東祐親は鎌倉殿に殺されました。その上、仇である工藤は鎌倉殿お気に入りの御家人です。千万の御家人たちを討つよりも、鎌倉殿一人をお討ち申して名を後代に留めたいと思っておりました」
 これを聞いた頼朝は
「あっぱれ男子の手本である。本当は私への恨みなど持っていないだろうに、見苦しいさまを見せまいと思って申したのであろう」
と五郎を褒め上げました。さらに
「臆病者千人よりも、このような者一人を召し使いたいものだ」
とまで言って命を助けようとしますが、梶原景時が
「工藤祐経には犬房(いぬぼう)と金法師(かなほうし)という子がおり、五郎を助ければ再び仇討ちが起こるやもしれません」
と進言したため、結局五郎は死罪と決せられました。
 その後、数えで9歳になる犬房がやって来て、五郎の髻(もとどり)をつかんで顔を扇で叩き始めますが、五郎は「いくらでも打つがよい」と打たれるに任せていました。やがて、縄を外された五郎は斬首されました。

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