30年日本史00767【鎌倉末期】上赤坂城の戦い 三武将戦死
兵を増強した六波羅探題は、さっそく
・平野重吉(ひらのしげよし:?~1333)と楠木正季が立て籠もる上赤坂城(大阪府千早赤阪村)
・護良親王が立て籠もる吉野城(奈良県吉野町)
・楠木正成が立て籠もる千早城(大阪府千早赤阪村)
に攻め込むこととなりました。
ここで上赤坂城という地名が初めて出てきました。以前、楠木正成が立て籠もった下赤坂城と近接していますが別の城です。一度幕府方に取られた下赤坂城は、内部構造を既に知られてしまっているため、楠木軍は別の城を選んだのかもしれません。
元弘3/正慶2(1333)年2月2日。阿蘇治時率いる幕府軍が、上赤坂城への攻撃準備にかかりました。しかし阿蘇軍の中には既に幕府方の敗北を確信している者たちがいました。本間資貞(ほんますけさだ:1297~1333)と人見光行(ひとみみつゆき:1261~1333)は
「幕府滅亡は間違いない。武家の運が尽きるのを見るのも忍びないから、潔く討死しよう」
と話し合って、抜け駆けして城の前で名乗りを上げました。これまでゲリラ戦でばかり戦ってきた反乱軍に対し、真っ向勝負を望んだのです。
しかし上赤坂城からは何の返事もありません。二人はやむなく塀にとりついて乗り越えようとしますが、城から射かけられた矢で射殺されてしまいます。
本間資貞の子・資忠(すけただ:1316~1333)は父の首を埋葬した後、城門を叩いて
「討死覚悟で一戦したい」
と申し入れました。今度は門が開き、資忠は中に入って戦うことを許されたのですが、そのまま戦死してしまいました。
その後、大将の阿蘇治時は、近くの神社で鳥居の柱に辞世の歌が貼られているのを見つけました。人見光行の辞世が
「花咲かぬ 老木の桜 朽ちぬとも その名は苔の したに隠れじ」
(花の咲かない老木の桜は朽ちてしまったとしても、その名声が苔の下に隠れることはないだろう)
で、本間資忠の辞世が
「まてしばし 子を思ふ闇に 迷ふらん 六つの街の 道しるべせむ」
(父よ、お待ちください。私を想ってあの世でも道を迷っているのではないですか。私が今から黄泉国への道案内をいたします)
でした。
阿蘇治時は三人の武将の死を悼み、いよいよ平野・楠木軍に決戦を挑みますが、幕府方はまたもや大きな犠牲を出してしまうこととなるのです。
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