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30年日本史00654【鎌倉中期】史上最短の元号「暦仁」*

 嘉禎4(1238)年4月25日。子や孫の栄達を見届けた九条道家は出家しました。これ以降道家は「太閤」と呼ばれ、引き続き政界の重鎮として君臨し続けることになります。「太閤」というと豊臣秀吉を思い浮かべる人が多いことと思いますが、単に「元関白」という程度の意味合いなのですね。
 余談ですが、この年の11月23日に「暦仁(りゃくじん)」への改元が行われましたが、そこから2ヶ月あまりしか経っていない暦仁2年2月7日、「延応」への改元が行われました。
 「暦仁」が使われたのは僅か2ヶ月14日であり、日本で用いられた元号としては史上最短ということになります。
 一体なぜかくも短期間で再び改元がなされたのかというと、「百錬抄」によると、世間で「りゃくじん=略人」との発想がなされ、「人が略される」=「人が殺される」との風評が発生したためだといいます。
 そもそも元号を選定する際に気づかなかったのかと不思議に思えますね。
 この後も九条道家の権勢はすさまじく、仁治2(1241)年1月に行われた四条天皇の元服式において、本来ならば上皇に遣わされるべき報告の使者が、なんと代わりに道家の元に遣わされました。この時期、治天の君たる院が不在だったため、このような措置がとられたのでしょう。
 さて、元服式が終わった10歳の四条天皇に対し、待ってましたとばかりに道家は孫娘の彦子(ひろこ:1227~1262)を入内させました。天皇10歳に対し、彦子は14歳です。
 ところが、四条天皇の外祖父として実権を握ろうとした道家の戦略は、突如として暗礁に乗り上げてしまいます。というのも、仁治3(1242)年1月9日、四条天皇は10歳の若さで崩御してしまったのです。その死の原因というのが、何とも痛ましい事故によるものでした。
 ある日、四条天皇は近習や女房が転ぶのを見ようと考え、板敷に粉を塗るといういたずらをしていました。ところがここを通った際に自ら転んで頭を打ち、その傷が元で死んでしまったというのです。
 幕府としては、承久の乱に関与していなかった守貞親王の系統だからこそ後堀河・四条という系譜を天皇位に就けてきたのです。しかしこの事故によりその系統は絶えてしまいました。泰時は重大な決断を迫られることとなります。

1236〜1333年にかけて幕府が置かれていた若宮大路幕府。大倉、宇都宮辻子に続く3番目の御所。泰時の邸宅にかなり近い。

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