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30年日本史00825【建武期】大光寺城/石川城/持寄城の戦い

 さて、鎌倉幕府滅亡から既に1年半が経過していますが、ここで建武元(1334)年11月まで粘り抜いた北条氏の残党がいたことを紹介しなければなりません。
 元弘3/正慶2(1333)年5月22日に鎌倉幕府は滅亡しましたが、あのとき、安達高景や名越時如(なごえときゆき)といった一部の幕府高官らは、所領のあった出羽国へと逃亡していました。彼らが立て籠もったのは、湊ノ城(秋田県秋田市土崎港)です。
 しかし、秋田に彼らの味方はいませんでした。安達・名越らは敵に囲まれた湊ノ城から抜け出し、さらに北上して11月には津軽の大光寺城(青森県平川市)へと入城しました。大光寺城を領する北条家御内人の曽我道性(そがどうしょう)が匿ってくれたのです。
 ところが、ここも安寧の地ではありませんでした。曽我光高(そがみつたか)、成田泰次(なりたやすつぐ)、工藤貞行(くどうさだゆき)といった地元の武士たちは皆、朝廷方に回ってしまい、さらに後醍醐天皇の命を受けた北畠顕家が陸奥に入部してきたのです。
 ちなみに曽我道性や曽我光高は、あの仇討ちで有名な曽我兄弟の養父・曽我祐信と同族です。相模国の曽我荘(神奈川県小田原市)を領していた曽我氏が、津軽へと移ってきたわけです。
 一方、工藤貞行はあの曽我兄弟に討たれた工藤祐経の子孫であると自称しています。といっても詳細な家系図が残っているわけでもなく、虚偽かもしれません。いずれにせよ、150年ぶりに起こった曽我と工藤の戦いは、不思議な因縁を感じさせますね。
 顕家の命を受けた曽我光高、成田泰次、工藤貞行は元弘4(1334)年1月、大光寺城に総攻撃を加えました。
 安達・名越は敗走し、今度は石川城(青森県弘前市)へと逃亡します。しかし顕家はさらに各地の武士たちを派遣して、その掃討に当たります。
 合戦は数ヶ月に及びましたが、5月には石川城も陥落します。
 さらに残った兵たちは持寄城(もちよせじょう:青森県弘前市)に立て籠もりましたが、ここも9月に総攻撃を受けて陥落しました。
 北条方の大将であった安達高景・名越時如は、11月には降伏しました。
 この戦いで、曽我氏は一族で敵味方に分かれて争ったわけですが、成田氏と工藤氏については北畠顕家方について活躍したため、多くの所領を得たそうです。
 それにしても、鎌倉幕府が滅びた後で1年半もの長きに渡って、本州の最果ての地まで逃亡しながら戦い続けた御家人がいたとは驚きです。

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