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30年日本史00360【平安中期】前九年の役 鬼切部の戦い

 さて、今回から「前九年の役」と呼ばれる安倍氏の反乱を取り上げることとなります。
 「前九年の役」とは、東北地方を拠点とする安倍氏が起こした反乱のことで、この戦いは永承6(1051)年から康平5(1062)年にかけて12年間続きました。
 その発端は、永承6(1051)年、陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう:987~?)が安倍頼良(あべのよりよし:?~1057)に対して戦闘を仕掛けたことでした。
 安倍頼良は奥州の実力者で、玉山金山(岩手県陸前高田市)を管理することで莫大な富を得ていました。その頼良に対し、登任は
「朝廷への貢租を怠っている」
と難癖をつけて戦を仕掛けたのです。実際に脱税が行われていたかは明らかではありません。恐らく登任は頼良が管理する金山の権利を得たかったのでしょう。
 最初の戦闘は鬼切部(宮城県大崎市)で行われ、安倍頼良が大勝しました。しかしこれにより、安倍氏は陸奥守に逆らった逆賊とみなされ、いつ追捕命令が下されてもおかしくない状況となってしまいました。
 そんな中、永承7(1052)年、源頼義(みなもとのよりよし:頼信の子:988~1075)が陸奥守に就任しました。
 源頼義もまた、登任と同様に逆賊・安倍頼良を討つことでその金山管理権を狙おうという意図のもとに戦いを仕掛けようとしますが、都から思わぬ邪魔が入ります。ちょうど病に臥せっていた上東門院彰子が快癒したということで、それを記念して大赦が行われ、安倍氏の罪が許されることになったのです。
 大河ドラマ「炎立つ」では、安倍氏が賄賂を贈って大赦を出させたという設定になっていましたが、実際のところ、安倍氏にそこまでの政治力があったかどうかは定かではありません。
 大赦を受けた安倍頼良は、源頼義を招いて饗応し、機嫌を取りました。このとき頼良は「よりよし」という名の読みが同じであることに遠慮して、自ら名を「頼時」と改めました。
 これにより源氏と安倍氏は親交を深めました。といっても源頼義と安倍頼時とは一時的に手を結んだに過ぎず、真に気を許したとは思えません。というのも、この後も頼義は頼時を陥れようと罠を仕掛けるのです。
 頼義・頼時が偽りの友情を結んだ一方で、その息子同士は真に心を許せる仲になったといわれています。安倍頼良の子・貞任(さだとう:1019?~1062)と源頼義の子・義家(よしいえ:1039~1106)です。
 しかし皮肉なことに、その後この2人は戦場であいまみえることとなってしまいます。

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