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30年日本史00736【鎌倉後期】鎌倉後期総括

 弘安7(1284)年から元徳3(1331)年までの47年間を「鎌倉後期」としてまとめてきました。
 前述のとおり、鎌倉時代を大きく3つの時代に区分するとすれば、
・源氏将軍の時代
・執権政治の時代
・得宗専制の時代
となり、鎌倉後期は「得宗専制の時代」に当たります。
 時宗が死去すると、得宗を継いだ貞時が実権を握り、さらには貞時側近の内管領・平頼綱もめきめきと力をつけてきました。
 元寇により経済的打撃を受け、御家人の窮乏という課題を抱えた鎌倉幕府を立て直せるかどうかの鍵を握っていたのは安達泰盛だったと思われます。安達泰盛は御家人の利益が最大化するよう各種改革に取り組んでいたのですが、内管領・平頼綱はあくまでも「御家人の誰かを滅ぼしてその所領を分配する」という従来的な手法で乗り切ろうと考え、再生のキーマンであった安達泰盛を滅ぼしてしまうわけです。これにより、鎌倉幕府はもはや繁栄を取り戻す方法を完全に失ったものと考えられます。
 その後、その平頼綱を北条貞時が滅ぼすわけですが、これは政治的な路線対立によるものではなく、単に所領没収と再分配を目的とした何らの理念のない戦闘であったと思われます。
 そこから得宗貞時が無気力に陥り、さらに執権が次々と交代して傀儡と化し、実権は長崎円喜、次いでその子の高資に移っていきました。得宗家に仕える内管領による専制ですが、広い意味でこれも「得宗専制」と呼ぶことができるでしょう。
 しかし「得宗専制」とはいっても、決して政治に強いこだわりを持った得宗や内管領が思い通りに政治を動かしていたというわけではなく、無関心で無気力な得宗・高時と、収賄による私的な利益追求にしか関心のない内管領・長崎高資がトップに立っていたわけで、一体これを「専制」と呼んでよいのかどうか、難しいところです。
 これほどまでに政治体制が崩壊しているというのに、2派に分裂した朝廷はひたすら幕府の裁定を頼り、幕府の機嫌を取るための工作を欠かしません。やがて大覚寺統が分裂し、朝廷は3派に分かれることとなりますが、その中で唯一、幕府から民心が離反していることを見抜き、幕府を倒そうと考えたのが後醍醐天皇でした。
 以上述べてきたように、幕府崩壊に向けた伏線はこの47年の間に十分に張られていたのです。次回からはいよいよ幕府崩壊の経緯をじっくり見ていきたいと思います。

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