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30年日本史00347【平安中期】68代後一条天皇即位

 長和4(1015)年。三条天皇は
「心にも あらでうき世に 長らへば 恋しかるべき 夜半の月かな」
と詠みました。百人一首に収録された有名な歌ですね。
 願っているわけでもないのに生き永らえている自分を自嘲しているわけですが、このとき既に天皇は失明していて月を見ることができなかったことを考えると、また違った趣きがありますね。
 長和5(1016)年1月29日。三条天皇は子の敦明親王を立太子することを条件に、やむなく譲位に応じました。これにより皇太子の敦成親王(8歳)が即位しました。後一条天皇です。
 歴代天皇には「後~」という諡名がいくつかあります。これを「加後号」と呼ぶのですが、後一条天皇がその元祖です。一条天皇は、一条の内裏に住んでいたから「一条天皇」という諡名が贈られたわけですが、後一条天皇は同じく一条の内裏に住んでいたため「後一条天皇」となったわけですね。
 後一条天皇の母は藤原彰子ですから、外祖父は道長ということになります。道長は遂に、念願の外祖父の座を得たのです。ここから道長の絶大な権勢が始まります(既に権力絶大な気もしますが)。
 皇太子には三条天皇と約束した通り、あの乱暴者として道長が嫌っている敦明親王が就きました。敦明親王には藤原顕光の娘・延子が嫁いでおり、既に男子が産まれているため、今後顕光が天皇の外祖父となる可能性もあるわけです。
 三条天皇の譲位の儀式においては、藤原顕光が仕切り役を買って出ました。「顕光には無理だろう」と考えた道長は断ろうとしますが、顕光がしつこく求めたため、やむなく任せることとなりました。
 顕光は式次第を書き付けた草紙を持って式典に臨みましたが、手順を間違えてばかりで嘲笑を買ってしまいました。このときの公卿らの日記を見ますと、まず藤原道長が
「あれほどやめろと言ってやったのに、無理やり買って出て失態を演じ、人々に笑われるとは、あまりにも愚かである」
と書いています。原文では「至愚之又至愚也」となっている部分です。
 藤原実資の日記には、
「いちいち失態を書き並べていると筆がすり切れてしまう」
とこれまた手厳しい言葉が書かれています。
 さらに源経頼(みなもとのつねより:?~1039)も
「異例のことが多く、今日の作法は後の典拠としてはならない」
と書いていますから、余程グダグダだったのでしょう。

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