30年日本史00321【平安中期】受領は倒るるところに土をつかめ
さて、藤原氏内部の権力闘争ばかりを取り上げてきましたが、ここで当時の社会課題についても取り上げておきたいと思います。
永延2(988)年11月8日、尾張国の郡司と百姓らが集まり、「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげぶみ)」なる文書を朝廷に提出しました。この文書では、尾張国司・藤原元命(ふじわらのもとなが)の圧政31箇条が訴えられていました。その内容は
「百姓から安価で強制的に絹を買い上げ、他国で高値で売りつける」
「施設の修繕費や食料を横領している」
「子弟・郎党らが狼藉を働いても見ないふりをしている」
「出勤が怠慢である」
などなどです。
当時の国司の多くは、このように私利私欲のために百姓らを苦しめていたようです。他にも欲の皮の突っ張った国司として、藤原陳忠(ふじわらののぶただ)が有名です。
以下に挙げるのは「今昔物語集」のエピソードなので史実かどうかは分かりませんが、ここで紹介しておきましょう。
信濃守の任期を終えて京へ帰還することとなった陳忠は、信濃・美濃国境の神坂峠(岐阜県中津川市)を通りかかったとき、乗っている馬が橋を踏み外したために、馬ごと谷へ転落してしまいます。その谷はあまりに深く、従者たちは
「もはや生存は絶望的だろう」
と頭を抱えます。
しかし、谷を見下ろしていると、谷底から
「かごに縄をつけて降ろせ」
という声が聞こえてきました。従者たちは慌ててかごを降ろし、引き上げてみました。すると、かごに載っていたのは、陳忠ではなくヒラタケだったのです。
再度かごを降ろして引き上げてみると、今度こそ陳忠が乗っていたのですが、たくさんのヒラタケを手にしています。従者たちが経緯を尋ねると、陳忠は
「転落して木に引っかかったところ、すぐ傍にヒラタケがたくさん生えているではないか。宝の山に入って手ぶらで出てくるのはもったいない。受領は倒れたところに土をもつかむべきだ」
と言い放ったといいます。これには従者一同呆れ果ててしまいました。
ちなみに「受領」とは国司(守・介・掾・目)の中で現地の最高指揮官を指す言葉です。つまり守が都に留まっている場合は介が受領ということになります。
当時の受領がいかに私欲にまみれていたかを示すエピソードですね。
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