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30年日本史00555【鎌倉初期】三浦義澄の名乗り

 頼朝が征夷大将軍に就任したところで本章を終える予定でしたが、就任に付随したエピソードがあるので、ついでに紹介しておきましょう。
 建久3(1192)年7月26日、頼朝を征夷大将軍に任命する旨の「除書」が都から届きました。「除書」とは人事異動通知書のようなものだと思ってください。
 除書を持参した勅使は中原景良(なかはらかげよし)という人物でした。頼朝はこの中原景良から直接除書を受け取るのではなく、代理人として御家人が受け取り、これを頼朝に渡す手筈になっていました。
 勅使を応対するというこの栄誉ある役割は、全ての御家人から羨望の的だったことでしょう。その役を射止めたのは三浦義澄でした。上総広常がいなくなった今となっては、頼朝としては御家人の中で最大の人数を誇る三浦勢に気を遣わざるを得なかったのでしょう。
 勅使・中原景良が鶴岡八幡宮の境内に立ち、うやうやしく除書を進上しました。これに対して、郎党10名を引き連れた三浦義澄が相対しました。
 中原景良が義澄に名を問うと、義澄は
「三浦の次郎!」
とだけ答えました。
 これは驚くべきやり取りです。勅使らは度肝を抜かれたのではないでしょうか。
 この答えの非常識さを理解するには、当時の人々の名前について理解しなければなりません。
 この時代、「姓」と「苗字」は異なるものでした。「姓」とは天皇からいただいたもので、「源」「平」「藤原」「橘」などがそれに当たります。一方「苗字」とは領地の名などを冠して自ら名乗り始めるもので、「和田」「上総」などがそれに当たります。
 義澄は勅使に名を尋ねられたわけですから、本来ならば官職と姓名を名乗るべきでしょう。例えば北条時政であれば、北条氏は平氏の出ですから、「遠江守・平時政(とおとうみのかみ・たいらのときまさ)」と名乗るのが正式な方法となります。
 三浦義澄はこの時点では天皇から姓をいただいていませんから、姓を名乗ることはできません。しかし三浦介(みうらのすけ)という官職を得ているわけですから「三浦介義澄」と名乗れば、それなりに様になったはずでした。義澄はそこをあえて「三浦の次郎」と名乗ったのです。
 三浦義澄は普段、武士同士で互いを呼び合う際には「義澄」という実名を使わず「次郎」としか呼ばれていなかったのでしょう。その武士の文化をそのまま勅使の応対においても適用したわけで、これは公家文化と武家文化のぶつかり合いといってよいでしょう。非常に挑戦的な答えであったでしょうし、多くの武士から喝采を浴びたものと思われます。

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