30年日本史00602【鎌倉前期】牧氏の変*
時政と牧の方の独裁がエスカレートする中、いよいよこの二人を謀略で葬ろうという計画が出てきます。
元久2(1205)年閏7月19日。「牧の方が娘婿の平賀朝雅を将軍位に就けようとしている。そのため実朝の命を狙っている」との情報が入ってきました。どこまで本当か分かりませんが、平賀朝雅は頼朝の養子ですので、将軍職を継ぐ資格があるという論理だと思われます。
吾妻鑑は、「牧の方が実朝の命を狙っている」というストーリーのための伏線を張っています。頼家が失脚した建仁3(1203)年9月10日に、実朝を次の将軍とするべく、実朝が政子邸から時政邸に移されたのですが、このとき阿波局が
「牧の方の様子が怪しい。あそこに置いておくべきではない」
と進言し、実朝をやはり政子宅に戻すことになった、という記述があるのです。
この情報に接した政子・義時は、急ぎ実朝を自身の邸宅に移して保護し、御家人たちに時政・牧の方の追放を指示しました。御家人たちの大半が政子・義時側についたことを知った時政・牧の方は、やむなく閏7月20日に出家し、政治から身を引くことを内外に示しました。
一方、平賀朝雅は閏7月26日に幕府の者の手により殺害されました。
時政は、かつての領地である伊豆国北条(静岡県伊豆の国市)に隠居し、二度と政治に復帰することなく建保3(1215)年1月6日、腫物が原因で病死しました。
牧の方は京で余生を過ごしたようですが、その後の行方は定かではありません。
こうして専横を振るった時政夫妻は失脚しました。この事件を「牧氏の変」といいます。
しかし、果たして畠山重忠の死をめぐる時政夫妻の策謀は事実だったのか、疑わしいものがあります。吾妻鑑は義時以降の北条一族を持ち上げるために史実を捏造している箇所があり、時政夫妻を本来以上に悪役に仕立て上げた可能性は否定できません。
牧氏の変から2週間が経過した8月7日、今度は宇都宮頼綱(うつのみやよりつな:1178~1259)が謀反を起こそうとしているとの情報が入りました。宇都宮頼綱は時政・牧の方の間に産まれた娘を娶っており、時政夫妻に近い存在と目されていました。
義時・政子らは、小山朝政を召し出して追討を命じますが、朝政はこの命令を拒否します。追討役が決まらないうちに、頼綱は朝政を介して書状を送り、謀反の意図はないと弁明した上で、政務を引退し出家しました。
その後、頼綱は歌人として和歌を詠みながら余生を過ごし、(後述しますが)藤原定家が百人一首を編纂するきっかけを作ることとなります。殺害されずに済んだだけ、幸せだったといえるかもしれません。
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