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30年日本史00591【鎌倉前期】比企能員の変 比企一族滅亡*

 北条が立てた作戦は、「頼家がまだ生きているのに死んだと虚偽報告をする」というあまりに非常識なものですが、朝廷側では真実を確かめる術もなく、これをすっかり信じ込んでしまいます。比企が時政殺害を頼家と相談している頃には、既に将軍位をめぐる争いは決着がついていたといえます。
 建仁3(1203)年9月2日。比企能員が時政殺害を企てていることを知った政子は、すぐさまこれを時政・義時に報告します。北条一族は話し合い、すぐに行動を起こすことに決めました。やられる前に比企能員を討とうというのです。
 時政はその日のうちに比企能員を呼び出しました。作っていた薬師如来像が完成したので、その仏像供養の儀を行うから、是非出席されたいというのです。この手紙を受け取った比企能員が出かけようとすると、家人たちは
「何が起こるか分からないので、出向くべきではありません。もし出向くならば武装した郎党たちを連れていってください」
と述べました。当然のことと思われますが、比企能員は
「武装などしては疑われる。きっと将軍位の相続について私に相談したいことがあるのだろう。行ってくる」
と言って、そのまま何の疑いもなく出かけてしまいます。
 比企能員は、門から入って行ったところを、時政の命を受けた仁田忠常にたちまち討ち取られてしまいました。
 主人の死を知った比企一族は怒り、一幡の館に立て籠もり戦闘に備えました。政子が
「比企一族が謀反を起こした。皆の者、鎮圧せよ」
と命令すると、北条一族のみならず、三浦義村、和田義盛、畠山重忠など次々と御家人が集まってきました。一体これを謀反と呼ぶべきなのか、微妙なところだと思いますが。
 御家人たちが一幡の館を取り囲み、合戦となります。そのうちに一幡の館には火が放たれ、比企一族は一幡や若狭局もろとも焼死し、滅亡しました。
 以上が吾妻鏡の記述ですが、一方、慈円が著した歴史書「愚管抄」には異なる記述があります。若狭局は命からがら、一幡を連れて炎上する館から抜け出したが、11月3日に北条の手の者に捕らえられ、殺害されたというのです。
 いずれにせよ、源氏将軍と外戚関係を結んだ北条・比企の二大勢力は、戦うべくして戦い、北条の勝利に終わったわけです。この事件を「比企能員の変」と呼びます。
 北条時政からすると、あとは頼家の死を待って千幡を将軍位に就ければよいのですが、ここで予想外の出来事が起こります。危篤でもはや回復の見込みがないと思われていた頼家が、9月5日、回復してしまうのです。

比企能員邸の跡地に建てられた妙本寺。比企一族の墓や一幡の墓がある。

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