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30年日本史00141【人代後期】22代清寧天皇即位

 さて、雄略天皇は雄略天皇23(479)年8月7日に崩御しました。自然の流れに従うならば、雄略天皇の子で、皇太子であった白髪皇子(しらがのみこ)が即位するべきところです。白髪皇子は生まれながら白髪であったからこの名が付いたと記録されています。アルビノだったとの説もあります。
 しかしそれに待ったをかけたのが、側室の吉備稚媛でした。
 吉備稚媛は、子の星川皇子(ほしかわのみこ)に
「白髪皇子の命を奪い、皇位をとってしまえ」
と命じます。
 吉備稚媛は、雄略天皇との間に星川皇子を設けながらも、雄略天皇から一族を殺された恨みを抱き続けており、吉備一族の血を引く星川皇子を即位させようとしたのです。
 ちなみに私が持っている石ノ森章太郎の「マンガ日本の歴史(全55巻)」では、この場面での吉備稚媛のセリフに括弧書きの説明が付いていて、「白髪皇子(後の清寧天皇)は奸臣どもに操られている!」と書かれてあります。セリフを見ただけで
「ああ……吉備稚媛側が敗北するんだな」
と分かってしまうので、子供心に興が覚める思いがしたのを覚えています。
 星川皇子は大蔵を占拠しました。大蔵とは財務を司る役所のことです。しかし白髪皇子の意を受けた大伴室屋(おおとものむろや)が大蔵を焼き払い、吉備稚媛と星川皇子を殺害し、反乱は鎮圧されました。
 清寧天皇元(480)年1月15日。白髪皇子が即位します。清寧天皇です。
 この清寧天皇については、事績が何も残っていません。ただ、清寧天皇5(484)年1月16日に皇后も子もいないまま崩御したことが書かれています。
 清寧天皇には子がなく、しかも他に男の親族も見当たりません。こうして皇統はここで途絶えてしまいます。明らかに、雄略天皇が身内を殺しすぎたことが原因でしょう。
 やむなく、市辺押磐皇子の娘に当たる飯豊皇女(いいどよのみこ)が皇位を継ぐことになりました。古事記では「皇位を継いだ」と書かれていますので、それならば歴代天皇に数えるべきだと思うのですが、日本書紀にはそのように書かれておらず、飯豊皇女は天皇とはみなされていません。
 さて、皇統が途絶えるという前代未聞の事態は、ひどく劇的な展開によって打開されることとなります。

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