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30年日本史00240【奈良】蝦夷征討 巣伏の戦い

 さて、光仁天皇が桓武天皇に引き継いだ最大の政治課題が、蝦夷の問題でした。宝亀11(780)年に伊治呰麻呂が大規模な反乱を起こしていながら、政府はそれを鎮圧できておらず、その後大きな戦闘は起きていないものの、東北からの税収は未だ途絶えたままです。
 延暦7(788)年12月7日。桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍に任命し、陸奥へ向けて送り出しました。朝廷軍は一旦陸奥国府のある多賀城に集結し、延暦8(789)年3月9日、いくつかの道に分かれて進軍を開始しました。
 3月28日、朝廷軍の2~3万人の軍勢が衣川(岩手県平泉町)を渡河して、その北岸に陣を布きました。この軍の指揮を執っていたのは、副使・入間広成(いるまのひろなり)でした。
 ところがこの後、入間広成はその場で逗留したまま、全く動こうとしませんでした。しびれを切らした桓武天皇は、5月12日に出撃を促します。
 天皇の叱責を聞いた入間広成は、慌てて進軍を命じました。北上川を渡河して、東岸に沿って北進していたところ、そこにいた蝦夷軍300人程度と出会い頭の戦闘になりました。
 2千人あまりの朝廷軍と、たった300人程度の蝦夷軍の戦いです。これは敵わぬとみた蝦夷軍は北へと退却し、朝廷軍はこれを追跡していきます。追跡するうち、巣伏村(すぶしむら:岩手県奥州市)というところに達しました。
 このとき蝦夷軍の一時的な退却は、恐らく陽動作戦だったと思われます。
 勢いに任せて敵を追跡していた朝廷軍の前に、突然800人の蝦夷軍が現れ、戦闘となりました。蝦夷軍の凄まじい勢いで、朝廷軍は後方へ押し戻されます。そこに山上に潜んでいた蝦夷軍400人が新たに急襲を加えました。朝廷軍は山と川に挟まれた狭い場所に追い詰められて総崩れとなり、次々と川に落下したのです。
 この巣伏の戦いで、朝廷軍は1061人もの戦死者を出しました。その内訳は、戦闘による死者が25人で、溺死者が1036人とのことです。一方、生還したのが1502人ですから、実に4割が戦死したことになります。まさに驚異的な惨敗でした。
 6月。多賀城で惨敗の知らせを聞いた紀古佐美は、蝦夷征討の中止を決意して、「軍を解散し、都へ帰還したい」との奏状を都に送りました。この奏状を受け取った桓武天皇は激怒し、「指揮官たちが無能である」と叱責しました。
 人数で勝る朝廷軍に対し、かくも壊滅的な打撃を与えた蝦夷側の指揮官は、族長・阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)でした。阿弖流為と母礼はまさに天才的な戦術家であり、おそらくこの巣伏の戦いによって、桓武天皇の記憶に2人の名が刻み込まれたのだろうと思います。
 この後、6年ほど蝦夷征討は行われなくなります。朝廷軍と蝦夷軍との戦闘に決着がつくのは、平安時代に入ってからのことでした。

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