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30年日本史00119【人代前期】ヤマトタケルの死

 こうしてみると、ヤマトタケルの敗北には3つの伏線が描かれていることが分かります。
 1つ目は、生理中のミヤズヒメと交わったこと。これは血を「穢れ」として忌み嫌う古代文化からすると、不吉な行為です。
 2つ目は、草薙の剣を置いていったこと。持っていけばアマテラスの加護を受けられるはずだったのに、これを置いて自力で戦おうとしたことが良くなかったわけです。
 3つ目は、「こいつは後で殺せばいい」と「言挙げ(ことあげ)」をしたこと。古代文化では、慢心を口に出してしまうことは「言挙げ」と呼ばれ、不吉なこととされているのです。漫画でも「見てろ。3分でリングに沈めてやるぜ」と言って戦い始める敵キャラは大抵負けるでしょう。それと同じことです。
 これら3つの行為があいまって、ヤマトタケルからツキを奪ってしまったのです。
 伊吹山を下山したヤマトタケルは、伊勢の方へ逃れてきました。現在の三重県四日市市水沢まで来たところで「膝が三重にねじれたようだ」と弱音をこぼします。これが「三重」という地名の由来となったのですね。前述したとおり三重と鳥取の2県は記紀神話に由来のある県名なのです。
 三重からさらに進み、能褒野(のぼの:三重県亀山市)まで来たところで、ヤマトタケルは伏せってしまいます。病の床でヤマトタケルは、故郷を偲んでこんな歌を詠みました。
「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」
 まほろばとは「最もすぐれた場所」といった意味でしょうか。「たたなづく」とは「畳を重ねたようにくっついている」ということです。つまり
「大和(奈良県)こそが最も優れた場所であり、青く重なった山々に隠された大和は麗しい」
といった歌ですね。
 この歌を詠んだ後、ヤマトタケルは亡くなりました。景行天皇41(111)年のことでした。
 大和にいた皇族たちは、死の報せを聞いて泣きました。すると、ヤマトタケルの魂が亡骸から抜け出し、白鳥となって飛んでいったといいます。
 みんなが白鳥を追いかけていくと、白鳥は河内国の志幾(現在の大阪府羽曳野市)にとどまりました。そこで、志幾に墓を築きました。
 現在、大阪府羽曳野市にある「白鳥陵」がヤマトタケルの墓と比定されています。全長190メートルの前方後円墳です。ただし、考古学者たちは「軽里大塚古墳」と呼んでおり、被葬者は不明としています。
 そういえば羽曳野(はびきの)という地名もヤマトタケル伝説に由来するものです。日本書紀に、「志幾に留まった白鳥が、さらにそこから羽を曳くがごとく飛び立った」との記述があることから羽曳野という地名ができたのですね。
 一方、ヤマトタケルが息を引き取った能褒野には、能褒野王塚古墳があります。墓と考えられている場所が2箇所あるのです。

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