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激論昭和史003 おらが総理は意外と強権的だった ~田中内閣①~

今回は田中義一内閣を取り上げます。
一回で一内閣を取り上げるつもりが、だいぶ長くなってしまったので二回に分けます。

田中内閣の覚えるべきこと

リベ太「第一次若槻内閣が終わったから、今日は田中義一内閣だね。さっそく保守美から説明を頼むよ」

保守美「分かりました! まずは大学受験レベルで覚えておくべきことをまとめておきますね」

1 憲政の常道に従って、立憲政友会総裁で陸軍の長老だった田中義一が組閣した。
2 高橋是清蔵相が、モラトリアム(支払猶予令)により取付け騒ぎを収束させた。
3 共産党や無産政党を敵視し、
 ・治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。
 ・特高警察を全国に拡大した。
 ・三・一五事件と四・一六事件で共産主義者を大量検挙した。
4 パリ不戦条約を締結した。
5 東方会議を開いて中国の権益を確保しようとした。山東省に三度にわたって出兵し、二度目の出兵時には済南事件が起きた。
6 関東軍の河本大作大佐が張作霖を爆殺した「満州某重大事件」は、張学良が国民党と提携するきっかけとなった。田中内閣は張作霖爆殺事件の処理をめぐって天皇の不興を買い、総辞職した。

右比古「多いなー。読者が離れていきそうだぜ」

リベ太「でも大学受験対策のためにも読んでほしい連載だし、出題されそうな話は網羅しておきたいんだよね」

左代子「それにしても、こうして一覧にすると田中義一がいかに悪い奴か、よく分かるわね」

右比古「へー。良い奴か悪い奴かを判断しながら歴史を見てるのか。まるで小学生だな」

保守美「量が多いですが、少しずつ解説していきますね」

史保理「お願いします」

元老とは

保守美「まず、若槻内閣が総辞職したことを受けて、元老の西園寺公望は後任首相に田中義一を指名しました」

史保理「あの・・・『元老』って何ですか?」

リベ太「まずは、大日本帝国憲法下における内閣総理大臣の選び方がどうなっていたかを説明すると良いんじゃないかな」

保守美「そうですね。まず、大日本帝国憲法の条文には『内閣総理大臣』という職名は存在しません」

史保理「え? 内閣総理大臣の選び方が憲法に書かれてなかったんですか?」

左代子「選び方どころか、内閣総理大臣っていう存在そのものが憲法に書かれてないのよ。あるのは『国務大臣』だけ。国務大臣の筆頭が内閣総理大臣なわけだけど、その存在は憲法上にないのよ。めちゃくちゃよね」

史保理「じゃあ、内閣総理大臣はどうやって選ぶんですか?」

保守美「天皇が任命します。普通は任命の前に『指名』がなされて、その指名に従って『任命』が行われるわけですが、誰がどうやって内閣総理大臣を指名するかについては、憲法にも法律にも一切規定がないんです」

右比古「だからな、天皇に対して実力者が『この人がいいと思いますよ』って推薦をして、天皇はその推薦を受け入れて任命するケースが多いんだ。その実力者というのは時代によって変わっていくんだが、昭和初期においてはその実力者のことを『元老』と呼んでいたわけだ」

史保理「『元老』っていう役職があったわけじゃないんですか?」

リベ太「ないんだ。何となくみんなに『あの人は大物だね』と認められていた人が『元老』と呼ばれたというだけ」

右比古「へ? 天皇から『朕をいろいろ助けてくれよ』みたいな勅語が出たことをもって、元老に就任したとみなすんじゃなかったっけ?」

リベ太「その勅語も、出た人もいれば出てない人もいるんだ。勅語の有無にかかわらず元老になってる」

史保理「そんな曖昧なものなんですね。その元老が、この時代には西園寺公望だったわけですか」

リベ太「そう。大正時代に首相を務めた大物だね」

左代子「こんな非民主的な仕組みがあるかしら。選挙で選ばれたわけでもない元老とやらが首相を勝手に決めてるわけよ」

保守美「でも、西園寺はリベラリストですから、左代子さんは嫌いじゃないんでしょう?」

左代子「確かに西園寺は好きだけど、それとこれとは話が別よ。首相指名の仕組みをちゃんと設けるべきだったわ」

リベ太「西園寺は、表向きは政界を引退して静岡県興津(おきつ)の『坐漁荘(ざぎょそう)』という別荘に住んでいた。首相が辞任すると、その西園寺が次の首相を決めるものだから、新聞記者たちがこぞって坐漁荘の周りを取り巻いて、出入りする側近たちにインタビューして、次の首相についての情報を取ろうとした。これを『興津詣で』と呼んでいたんだ」

史保理「若槻さんが辞任したときも、『興津詣で』が行われたんでしょうね」

坐漁荘でくつろぐ元老・西園寺公望(wikpediaより)

保守美「そうですね。でも、新聞記者たちはみんな、次の首相が田中義一であることは分かっていたと思いますよ。『憲政の常道』に従えば田中義一が就任するに決まってますからね」

史保理「その『憲政の常道』も聞いたことあるんですけど、よく分からないです」

憲政の常道とは

保守美「『憲政の常道』とは、大正14年から昭和7年まで続いた『次の首相の選び方』についてのルールです」

左代子「1925年から1932年までね」

史保理「どんなルールなんですか?」

保守美「首相が辞任したときは、野党第一党の党首が次の首相になるというルールです」

史保理「??? なんだか変な気が・・・」

リベ太「これは現代人の感覚からすると、よく分からないルールかもしれないね」

右比古「現代に置き換えると、自民党の総裁が首相を辞めたとして、直ちに立憲民主党の党首が次の首相になるってことだぜ。変なルールだよな」

史保理「今だったら、自民党の総裁が首相を辞めても、その次に自民党総裁に就任した人が首相になりますよね」

リベ太「自民党が第一党である限りはそうだよね」

左代子「これは当時としては素晴らしいルールだったと思うわ。そもそも大日本帝国憲法下では、内閣総理大臣は衆議院議員である必要も、貴族院議員である必要もなかったの。突然『陸軍の大物』とか『官僚の大物』とかが任命されたりしちゃうわけ。それでは民主的な政府とは言えないでしょ?」

リベ太「そう。そこで、衆議院の二大政党の総裁のどちらかが首相の座を担うことにしたわけだよ。二大政党というのは憲政会と立憲政友会だね。立憲政友会の内閣が失策により総辞職した場合には、憲政会が次の内閣を担う。憲政会の内閣が総辞職したら、逆に立憲政友会が次の内閣を担うということだ」

右比古「当時の政党が、本当に国民の利益を代弁するものになっていたかは疑問だけどな」

左代子「軍部や官僚よりはマシでしょ!」

史保理「なるほど・・・。『憲政の常道』は何となく分かったんですけど、それって、何かに規定されたルールなんですか?」

保守美「いえ、一切規定はありません。ただ、何となくこういうルールに則って西園寺が後継首相を指名するようになったので、世間ではこのルールを『憲政の常道』と呼ぶようになったというものです」

憲政会と立憲政友会

史保理「当時の二大政党は、憲政会と立憲政友会でしたよね。これら二つの政党の主張は、どう違うんですか?」

リベ太「いろいろ違うんだけど、とりあえず現時点では外交政策の違いだけ押さえておいてもらおうかな」

保守美「そうですね。まず、憲政会は幣原喜重郎による協調外交を党是としています。幣原自身は憲政会に入党しているわけではないんですが、憲政会の身内同然に扱われていました」

左代子「南京事件のときにも断固として日本軍を派遣しなかったのよね。立派だわ」

リベ太「一方、立憲政友会の方は『強硬外交』と呼ばれているんだ。多少は武力に頼ってでも、アジアでの権益を確保していこうという姿勢だね」

保守美「そのとおりですが、立憲政友会が強硬だったのはアジアに対してであって、欧米列強に対しては協調姿勢を見せていた点を指摘しておきたいですね」

左代子「弱い者に強硬に出て、強い者に巻かれるなんて、もっと恥ずかしいわよ」

田中義一

史保理「立憲政友会の総裁が首相に選ばれた理由は分かったんですけど、その田中義一っていうのはどんな人だったんですか?」

保守美「田中義一は幕末に長州萩(山口県萩市)で生まれました。田中は長州の先輩である山県有朋や桂太郎の後を追って、陸軍に入ります。陸軍では山県・桂に引き上げられて出世し、陸軍大臣まで上り詰めました。そして、陸軍を引退後に政界に打って出て、立憲政友会の総裁に就任しました

立憲政友会の総裁・田中義一(wikipediaより)

史保理「??? 陸軍って政党と仲が悪そうなイメージがあるんですけど」

左代子「そうよね。陸軍は政党政治を軽んじてる人が多いわ」

史保理「それに、立憲政友会って、二大政党制の一方を担った大きな政党ですよね。党内にいっぱい有力者がいたでしょうに、それを差し置いて、外部から来た人を総裁として迎え入れたんですか?」

右比古「そういや麻生内閣時代に、次回衆院選で敗北必至となった自民党が宮崎県知事・東国原英夫に自民党からの出馬をお願いしに行ったら、総裁ポストを要求されて話が立ち消えになった、ということがあったな」

保守美「自民党もバカにされたものですね。要するに首相に就任させろと言っているのと同義ですもんね」

リベ太「でも、政友会の古参議員たちにとって、突然陸軍からやって来た田中義一を総裁として迎えるというのは、そのくらいバカにされたような話だったかもしれないね」

右比古「それだけ、陸軍への強いコネクションを持った田中に期待してたってことだろ」

リベ太「その点については、若干キナ臭い話があってね。元々、立憲政友会の総裁はダルマ宰相の異名で有名な高橋是清だったんだ」

史保理「ダルマ宰相?」

右比古「顔がダルマにそっくりだから、当時そう呼ばれてたんだ」

立憲政友会の前総裁・高橋是清(wikipediaより)

リベ太「ところが、高橋是清は大蔵大臣としては優秀だったんだけど、政党の総裁には向いていなかったといわれてる。政党の総裁は、いろんな支持団体から資金を集めなきゃいけないんだけど、それが苦手だったらしい」

史保理「政治家がお金集めをするんですか?」

右比古「それは現代も変わらんな。政治家は時々、資金集めのパーティを開いてカネを集めてる。ちゃんと政治資金収支報告書に記載すれば、何ら違法じゃない」

史保理「お金集めが下手だから総裁に向いてないって、世知辛い話ですね」

リベ太「そこで、高橋是清を総裁の座から引きずり降ろして、お金集めが上手い田中義一を総裁に据えたってわけだ」

左代子「田中義一は300万円もの大金を立憲政友会に寄付して、その見返りに総裁ポストを手に入れたのよ。それだけじゃない。その300万円は、陸軍機密費から横領したのよ!」

右比古「300万円の寄付は田中自身も認めている話だが、それが陸軍機密費からの横領だっていうのは、証拠のねえ話だろうが」

左代子「この陸軍機密費横領問題を調査して、まさに証拠をつかもうとしていた石田っていう検事は、線路沿いで変死体となって発見されたわ」

史保理「それ・・・本当ですか?」

右比古「石田検事の死はただの事故死の可能性もある。それに、石田検事が調査していたのは、政友会の田中の問題だけじゃない。憲政会のスキャンダルについても調査してたんだ。だから仮に殺しだとしても、石田検事を殺したのがどっちの陣営なのかは分かったもんじゃない」

左代子「絶対に田中が黒幕よ!」

史保理「なんか・・・キナ臭い人物なんだということが分かりました」

保守美「変なイメージが付いちゃったみたいですね笑。でも田中義一って、割と庶民的な人気もあったんですよ。山口県出身で、『おらが』が口癖だったせいで、『おらが総理』なんていうあだ名も付けられました。首相官邸のことを『カフェー・オラガー』などと呼ぶ人もいたそうですよ」

左代子「庶民的な人気が欲しくてわざと訛を強くして喋ってたんじゃないの?」

右比古「さあな。でも、河村たかしはテレビカメラが回っていないところだと、結構標準語だっていう話を聞いたことがあるから、そういう政治家はいるかもしれねえな」

リベ太「そういえば、タモリの本名は森田一義っていうんだけど、祖父が田中義一のファンだったから『義一』にしようとしたんだって。でも、『画数の偏りがひどすぎて、頭でっかちな子になっちゃうんじゃないか』という意見が出たので、『義一』をひっくり返して『一義』って名付けられたんだよね。田中義一は、確かに中国を侵略したり共産主義者を弾圧したり、強権で個性の強い人物だったけど、当時としてはそこそこファンも多かった首相だと思うよ」

2日で制定したモラトリアム(支払猶予令)

保守美「さて、田中首相が真っ先に手を付けなければならなかったのは、金融恐慌への対応でした。組閣した時点では、まだ銀行での取付け騒ぎが収まっていなかったんです」

リベ太「となると、活躍するのは大蔵大臣だね」

保守美「はい。田中内閣の大蔵大臣は、あの高橋是清でした」

史保理「総裁の座を引きずり降ろされたのに、その後、総裁の田中義一を支える大蔵大臣に就任したんですね。どんな気持ちだったんだろう」

リベ太「そもそも高橋是清は総裁なんかやりたくなかったんだよ。田中に総裁職を譲ることができてホッとしたんじゃないかな。田中首相との関係は良好だったみたいだよ」

保守美「高橋蔵相は、就任直後からさっそく勅令を作って枢密院に提出しました」

史保理「台湾銀行を救済する勅令ですか?」

リベ太「いや、政友会の人たちは、憲政会とは異なる方法で事態を収束しようとした。それは、モラトリアムという方法だ」

史保理「モラトリアム? 倫理の教科書に出てきたような・・・」

左代子「倫理で出てくるモラトリアムは心理学用語ね。社会人になるのを少しだけ猶予されている大学生などを指す言葉よ。心理学者エリクソンが言い出したのよね」

右比古「ここで出てくるモラトリアムは金融用語だ。日本語でいうと支払猶予令。預金者が銀行に行って預金を引き出そうとするのを防ぐため、『ある一定の期間は預金をいくらまでしか引き出せません』という仕組みを作ることだ」

史保理「なるほど。『預金を全額引き出したい』というお客さんが殺到しているわけですから、そういう法律はうってつけですね」

保守美「高橋蔵相は、3週間のモラトリアムを設定する緊急勅令を、枢密院での可決を経て、昭和2年4月22日に・・・」

左代子「1927年ね」

保守美「そう、昭和2年4月22日に制定しました。田中内閣が発足したのが4月20日ですから、僅か2日間の準備期間で制定したんです。すごいスピードですよね」

右比古「高橋是清はやっぱり財政の神様だな」

左代子「田中内閣は強硬外交だから、枢密院の嫌がらせを受けずに済んだからよ。枢密院の妨害さえなければ、若槻内閣でも金融恐慌を収束させられたと思うわ」

右比古「それはどーかな」

共産党や無産政党の排斥

左代子「ここからは私に説明させてもらうわ。田中内閣による極悪非道の数々を暴いていくわね」

右比古「はいはい。みんな、拍手ー」

左代子「茶化さないで! まず、田中首相は共産党や無産政党を危険思想とみなして、激しく弾圧したのよ」

史保理「無産政党って何ですか?」

左代子「当時、ブルジョワジーのことを有産階級、労働者のことを無産階級と呼んでいたの。その無産階級の人たちに寄り添う政党のことを『無産政党』と総称していたの。具体的には、日本農民党とか社会民衆党といった政党があったわ」

史保理「共産党とは違うんですか?」

左代子「日本共産党は、治安維持法という悪法のせいで存在自体が非合法扱いされてしまっていたの。無産政党というのは、日本共産党以外の政党を指す言葉なの」

史保理「なぜ共産党や無産政党は危険視されちゃったんですか?」

右比古「危険だからに決まってんだろ」

左代子「あなたは黙ってて! 共産主義っていうのは、天皇を頂点とした中世的な階級社会から脱却して、平等な社会を作ろうという考え方なの。だから階級社会を維持したがるブルジョワジーからは危険視されるのよ」

右比古「平等だか何だか知らねえが、まずは自由を確保することが先決だろ。共産主義は自由を保障してくれねえんだよ」

左代子「どういう意味よ?」

右比古「共産主義の世の中になったら、資本家は殺されるんだぜ。金を儲けてたってだけで罪になるんだから、恐ろしい世界だぜ」

左代子「あなたは共産主義を大きく誤解してるようね」

右比古「ソ連も中国もカンボジアも、共産党政権が自国民を次々殺して行ったじゃねえか」

左代子「あれは真の共産主義とはいえないわ。それに、資本主義が殺した労働者の数はもっと多いじゃないの!」

リベ太「はいはい、話がズレて来たからそこまで!」

治安維持法の改正

史保理「それで、田中内閣はどんなことをして、共産主義者を排斥したんですか?」

左代子「いくつかあるんだけど、まずは治安維持法を改悪して、最高刑を死刑に引き上げたことね。共産主義思想を持っているというだけで、死刑になり得るということよ。怖いわ」

右比古「その『改悪』とかいうパヨク特有の造語、嫌いなんだよな」

保守美「ロシアで共産主義革命が起こって、皇帝ニコライ2世が殺されてしまったという歴史があるわけですから、同様の事態が日本で起こらないように手を打ったというわけですね」

リベ太「天皇を中心とする国家観を持っていた当時の保守層にとって、共産主義はそこまで恐れられていたんだね」

特高警察の全国拡大

左代子「次に田中内閣が行ったのが、特高警察の全国拡大ね。共産主義を弾圧するための体制を全国の都道府県警察部に広げたのよ」

史保理「特高警察ってよく聞くんですけど、どういうものですか?」

右比古「特別高等警察の略だ。治安維持法違反を取り締まるための部署だな」

保守美「特高警察がそれまでは警視庁にしかなかったのを、他の県警察にも設置したということですね」

左代子「治安維持法で投獄されたことのある羽仁五郎さんは、回顧録の中で『なにが高等か。思想を弾圧することほど低級なことがあるか』と喝破しているわ」

リベ太「笑っちゃう言葉だけど、その通りだね」

三・一五事件と四・一六事件

左代子「さらに田中内閣のとき、史上初の普通選挙が実施されたんだけど・・・」

史保理「普通選挙?」

リベ太「昔は、国税を一定以上納めた人でないと選挙権がなかったんだ。当初は直接国税15円以上。その後、10円以上。さらに3円以上に引き下げられたけど、なかなか納税要件は撤廃されなかったんだ」

保守美「加藤高明内閣のときに納税要件が撤廃されて、25歳以上の男子は全員選挙権を持つようになったんです。これを普通選挙といいます」

左代子「女性には選挙権がなかったのに、これを『普通選挙』っていうのはおかしいわよ。それに、普通選挙法の成立と同時に、交換条件のような形でひどい法律が制定されたのよ」

保守美「先程から何度も言及されている治安維持法ですね。加藤高明内閣は、普通選挙が行われれば無産政党から当選者が出てしまうおそれがあるということで、無産政党を取り締まれる法律を同時に作ったんですよね」

史保理「普通選挙は分かったんですけど、田中内閣のときに行われた選挙が史上初の普通選挙だったんですか?」

左代子「そう。普通選挙法が制定されたのは1925年だけど、初めての普通選挙が行われたのは1928年2月20日だったの。このとき、田中内閣は大規模な共産主義者弾圧を行うのよ」

保守美「はい。選挙の翌月に当たる3月15日、数千名もの共産党員が逮捕拘束されました。これを三・一五事件といいます」

リベ太「その翌年の1929年4月16日、二回目の弾圧が行われ、これまた数千名もの共産党員が逮捕拘束されたんだ。これを四・一六事件というよ」

史保理「五・一五と二・二六は聞いたことあるんですが・・・」

保守美「三・一五と四・一六も試験に出ますよ!」

リベ太「ふう。田中内閣の内政を見ていっただけでだいぶ時間が経ってしまったな。少し休憩してから、今度は外交を見ていこうか」

というわけで、今回はここまでとします。
内閣の事績を右と左それぞれから捉えていくと、右比古は立憲政友会支持、左代子は憲政会支持という形になって分かりやすいんですが、この後、両方からダメ出しされる政権が出て来たりすると、なかなか分かりにくい構図になっちゃうんですよね。工夫しなきゃ。
ちょっと退屈な解説が増えてしまった気がしますが、頑張ってついて来ていただきたい!

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