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30年日本史00309【平安中期】安和の変

 さて、冷泉天皇は即位前から奇行で有名でした。即位後もそれは変わらず、一日中蹴鞠を梁に乗せようと蹴り続けるなどしてますます有名になってしまいます。
 これは上皇になった後の奇行エピソードですが、藤原道長の屋敷にふざけて放火しようとしたとか、火災が起きてみんな慌てている中で「庭火」という神楽歌を大声で歌ったとか、塀の上に渡した板の上を歩こうとしたとか、様々な話が残っています。
 安和元(968)年。師輔の三男・兼家が娘・超子(とおこ:954~982)を冷泉天皇の女御として入内させました。
 これより前に、師輔の長男・伊尹は娘・懐子(ちかこ:945~975)を入内させていたのですが、それに対抗した形となります。伊尹・兼通・兼家の3兄弟は、誰が天皇の外祖父になれるかを競っているかのようです。
 この外祖父レースに早くも動きがありました。同年、懐子が師貞親王(もろさだしんのう:後の花山天皇:968~1008)を出産したのです。伊尹が一歩リードといった印象ですね。
 3兄弟は権力を狙ってお互い競争する一方で、共通の政敵を追い落とすことについては協力を惜しみません。安和2(969)年3月25日、遂に「最後の他氏排斥」と呼ばれる「安和の変」が起こります。
 事件の発端は、源満仲(みなもとのみつなか:912~997)が朝廷に、
・中務少輔・橘繁延(たちばなのしげのぶ)
・右兵衛尉・源連(みなもとのつむら)
・藤原千晴(ふじわらのちはる)
の3名が、為平親王を擁立しようと謀反を企んでいると密告してきたことでした。
 為平親王といえば、冷泉天皇の弟だったのに藤原一族に忌避され、皇太子になれなかった人物ですね。いかにも反主流派が擁立しそうな人物といえます。
 源連は捕らえられ、謀反を自白しました。ここで、当然の流れですが為平親王の岳父(がくふ:妻の父のこと)である左大臣・源高明の関与が疑われました。
 結局、源連と藤原千晴は流罪となり、源高明は大宰権帥に左遷されました。大宰権帥は菅原道真が左遷されるときに使われたポストですね。この事件は、源高明を追い落とすために仕組まれたものと考えられています。
 源高明が失脚した一方、密告した源満仲はこの後各国の受領を歴任することとなります。
あわせて、源満仲の子らも出世していきます。
・長男:頼光(よりみつ:摂津源氏の祖:948~1021)
・次男:頼親(よりちか:大和源氏の祖:生没年不詳)
・三男:頼信(よりのぶ:河内源氏の祖:968~1048)
 このうち、三男頼信の系統があの源頼朝を産むことになるのです。ちなみに満仲は多田盆地(兵庫県川西市)を拝領したことから、川西池田駅前にその銅像が建てられています。

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