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30年日本史00114【人代前期】相撲と埴輪と伊勢神宮

 さて、垂仁天皇の時代に始まったとされるものがいくつかあります。それらのエピソードを見ていきましょう。
 まずは相撲の始まりについての話です。垂仁天皇7(B.C.23)年7月7日。垂仁天皇は、「当麻蹴速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の二人は怪力で有名だ」という話を聞き、この2人を呼んで勝負させるよう命じました。相撲の結果は、「野見宿禰が当麻蹴速のあばら骨を踏み砕いて殺し、勝利した」と書かれています。相撲のルールが全然違うじゃないかと突っ込みたくなりますね。しかもあばら骨を踏み砕くということは、一旦倒れた相手の体をさらに踏みにじっているわけで、武士道的にもスポーツマンシップ的にもアウトと思われるのですが、まあ当時の価値観は我々には計り知れないのかもしれません。
 垂仁天皇は、敗者である当麻蹴速の土地を没収し、勝者である野見宿禰に与えました。文字通り、踏んだり蹴ったりです。これが相撲の起源となり、初めて相撲が行われた場所(奈良県桜井市)に「相撲神社」があります。一方、当麻蹴速の領地は奈良県葛城市當麻町で、こちらには「相撲館」という市立博物館があります。
 もう一つのエピソードが、埴輪の由来です。垂仁天皇28(B.C.2)年10月5日。垂仁天皇の母の弟、ヤマトヒコ(倭彦)が死去したときのことです。慣習に従って、近習の者を一緒に生き埋めにしたところ、彼らはなかなか死なず昼夜泣きうめいたというのです。この声を聞いた垂仁天皇は大変心を痛めました。
 次に、垂仁天皇32(3)年7月6日に皇后・ヒバスヒメ(日葉酢媛)が死去したとき、垂仁天皇は「殉死はもうやめさせたい。他に方法はないか」と言いました。これを受け、野見宿禰が「実際に人や馬を埋めるのではなく、人や馬の形を作って埋めてはどうでしょう」と提案しました。これが埴輪の誕生だというのです。しかし、人を生き埋めにした墓は発掘で出てきていないので、このエピソードはフィクションである可能性が高いでしょう。
 さて、垂仁天皇の時代には、現代につながるもう一つ重要なエピソードが紹介されています。伊勢神宮の由来に関わる話です。垂仁天皇25(B.C.5)年3月10日。垂仁天皇は「宮中は汚れている」として、娘の倭姫(ヤマトヒメ)に八咫の鏡を安置すべき場所を探すよう指示しました。サホビコの反乱など、いろいろな事件があったためでしょう。倭姫は各地を転々とし、最終的に鏡を伊勢に安置することに決定しました。そうして建てられたのが伊勢神宮だというのです。今も八咫の鏡は伊勢神宮に安置されています。
 さて、垂仁天皇90(61)年2月1日。垂仁天皇は「常世国に不老不死になれる木の実(橘の実とされる)がある」と聞き、田道間守(タジマモリ)に取りに行かせました。田道間守は木の実(橘の実と伝えられています)を見つけるも、それを持ち帰る途中の垂仁天皇99(70)年7月1日に垂仁天皇は崩御してしまいます。田道間守の帰還は翌景行天皇元(71)年3月12日ですから、僅かに間に合いませんでした。悲観した田道間守は、垂仁天皇の陵の前で自害したと伝えられています。

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