30年日本史00581【鎌倉前期】三幡の死*
頼家を牽制するために作られた「十三人の合議制」の顔ぶれを見ていくと、意外にも文人官僚が13人中4人を占めています。しかも、吾妻鏡に記載された順をみると文人4人を先に挙げてから武士9人を挙げていますから、文人の方が上席に位置付けられているようにも思えます。鎌倉幕府は武士団であるとはいっても、文人官僚をいかに大事にしていたかが分かります。
そして注目すべきは、北条氏が唯一2名出している点です。時政のみならず子の義時が、しかも唯一30代の若さで参画しています。
吾妻鏡をいくら読み込んでも、この時点で義時が何らかの功績を挙げていたとは考えられません。一方で時政は、後白河法皇と交渉して全国に守護・地頭を設置することを認めさせたり(文治の勅許)、源平合戦の戦後処理として平家方の残党狩りをしたり、大活躍しています。おそらく時政が自らの勢力を高めるため、13人の合議制に息子をねじ込んだのでしょう。
そして、この時点では義時は北条姓を名乗っていなかったと考えられます。というのも、吾妻鏡において義時は「江間小四郎」や「江間殿」などと呼ばれており、一度も「北条」と呼ばれていないのです。
「北条」とは伊豆国で時政が治めていた領地の地名です。現在も静岡県伊豆の国市に「北條」という地名が残っており、そこに時政邸跡があります。
一方、時政の次男の義時は、北條から北西に1kmほど行った「江間」という場所に住んでいました。おそらく北条氏の家督は当初長男・宗時に継がせる予定だったので、次男を離れ屋敷に置いてその周辺を統治させようと思っていたのでしょう。宗時が石橋山の戦いで戦死したため、次男・義時を嫡男と定め、それ以降時政は義時に政治教育を叩き込み、このたび十三人の合議制に参画させたものと思われます。
政子の立場からすれば、父・弟(時政・義時)が息子(頼家)と対立しているわけで、居心地の悪い思いをしたことでしょうが、その政子を悲劇が襲います。
頼朝と政子の間に産まれた次女・三幡(さんまん:1186~1199)が高熱を出し、重体となったのです。名医として著名な丹波時長(たんばのときなが)が呼ばれて治療に当たったところ、容態は一旦回復に向かいましたが、再び重篤化して、目の上が腫れてぐったりとしてしまいました。丹波時長は
「もはや人の力の及ぶところではありません」
と諦めて帰洛してしまいます。
三幡は正治元(1199)年6月30日に死去しました。政子の産んだ2男2女のうち、残るは長男・頼家と次男・千幡(せんまん:後の源実朝:1192~1219)だけとなりました。
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