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30年日本史00760【鎌倉末期】後醍醐天皇の隠岐配流

 元弘2/元徳4(1332)年1月17日。六波羅に幽閉中の後醍醐天皇は、殿ノ法印(とののほういん:?~1334)の手引きで脱出しようとしますが、途中で警護の武士に見つかり失敗に終わりました。「殿ノ法印」とは不思議な呼び名ですが、二条家(藤原氏の一つ)の出身で「法印」という僧侶の位階を持つ人物だったため、こう呼ばれたようです。
 後醍醐天皇が反抗的な態度を崩さない中、六波羅探題北方・普恩寺仲時は、鎌倉からの指示を実行に移すこととしました。3月7日、後醍醐天皇を隠岐に、天皇の長男・尊良親王を土佐に、四男・尊澄法親王(そんちょうほっしんのう:後の宗良親王:1311~1385)を讃岐に、それぞれ流罪と決したのです。
 六波羅探題は後醍醐天皇に対し、隠岐への出発前に出家することを薦め、法衣を用意しましたが、天皇は
「出家するつもりはない」
と答え、天子の衣を脱ごうともせず、さらに毎朝天皇が行う日課である行水と大神宮礼拝もやめようとしません。まだ復権を諦めていないのでしょう。
 後醍醐天皇を護送する役目を仰せつかったのは、御家人の佐々木道誉です。天皇は佐々木道誉に
「しるべする 道こそあらず なりぬとも 淀のわたりは 忘れじもせじ」
(おまえが先導する道は、昔の行幸のときとはまったく違ったものになってしまった。しかし、この淀の渡し場は昔と同じだ。忘れてはいないぞ)
と書き送りました。元弘の乱が起こる以前に、後醍醐天皇が石清水八幡宮に参拝した折、佐々木道誉が同道したことを思い出したというわけです。歌をもらった佐々木道誉はきっと喜んだことでしょう。
 このとき、後醍醐天皇に同行して隠岐へと赴いたのは、天皇の寵愛していた女房・阿野廉子(あのかどこ:1301~1359)と、下級貴族の千種忠顕(ちくさただあき:?~1336)でした。
 阿野廉子は源頼朝の弟である阿野全成の子孫です。駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を領地とした一族ですね。
 千種忠顕は、邦良親王の側近として登場した六条有忠(00728回参照)の次男です。早い段階で後醍醐天皇の近臣となったため、皇太子・邦良親王の早期即位を画策する父・有忠と敵対することとなりました。学問よりも笠懸や犬追物など武芸を好み、公家としては珍しい人物でした。
 この二人は、後に後醍醐天皇が復権した際に重用されることとなります。人は落ち目になったときに助けてくれた人をこそ重宝するものなのでしょう。

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