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30年日本史00789【鎌倉末期】六波羅探題滅亡 番場宿の地獄*

 5千人の敵兵を前に呆然としていた糟屋の前に、ちょうど先陣で戦闘が発生したと聞いた普恩寺仲時が馬を走らせてきました。
 糟屋が仲時に、
「このまま東へ進むのは困難でしょう。後陣の六角時信と合流して、どこぞやの城にでも立て籠もって鎌倉からの援軍を待つほかないのではないでしょうか」
と進言すると、仲時もまたそれに同意し、
「では時信を待って、3人で協議しよう」
と言い、後陣との合流を待つこととなりました。
 ところが、待てど暮らせど時信はやって来ません。このとき時信は後方からの追撃を警戒しながら愛知川(えちがわ:滋賀県愛荘町)を進軍していたのですが、なぜか
「番場において仲時以下全員が戦死した」
との誤報が入ってきたのです。時信は
「ならばこのまま進軍しても仕方がない」
と言って、京に引き返して降伏することを決めてしまいました。
 時信が来ないので、裏切ったものと判断した仲時と糟屋は、遂に番場宿の蓮華寺(滋賀県米原市)で自決することを決めました。仲時は兵たちに
「これまで北条のために尽くしてくれたことに感謝する。その感謝に今こそ応えたい。この仲時は不肖ながらも北条一門として名高い身であるから、どうか私の首をとって降伏し、生き永らえてほしい」
と言い残し、切腹して果てました。自分の首を持って降伏すれば、きっと兵たちの命は助かるだろうというのです。
 しかし、糟屋を始めとする家臣たちは最後まで仲時に殉じることを決めていました。このとき仲時に付き従っていた432人もの兵が一斉に自害したのです。
 仲時に連れられていた光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇はあまりの壮絶な光景に、ただただ呆然としていました。少しの血液でも穢れとして忌み嫌う宮中文化の中に育った3人にとって、かくも大勢の自刃がどれほどの衝撃であったか、想像に余りあります。以前「光厳院~地獄を二度も見た天皇~」というタイトルの伝記がある旨を紹介しましたが(00735回参照)、この番場宿での出来事が一度目の地獄に当たります。
 やがて番場宿に到着した敵軍が、天皇・上皇を発見して京へ連れ戻しました。3人は粗末な網代の輿に乗せられ、この地獄のような番場宿を後にしたといいます。
 こうして強大な力を誇った六波羅探題は、足利高氏が篠村八幡宮に願文を捧げた翌々日には早々と滅んでしまいました。

光厳院の伝記「地獄を二度も見た天皇」。この番場宿の地獄が一度目に当たる。

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