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30年日本史00299【平安中期】承平天慶の乱 坂東8ヶ国の降伏

 坂東8ヶ国を平らげようという野望をもった将門軍は、興世王の発案でそれぞれの国司を任命してしまいます。これは、将門政権が中央政府にとって代わったことを意味します。
下野守: 平将頼(たいらのまさより:将門の弟:?~940)
上野守: 多治経明(たじのつねあき:?~940)
常陸介: 藤原玄茂(ふじわらのはるしげ:?~940)
上総介: 興世王
安房守: 文屋好立(ふんやのよしたて:?~940)
相模守: 平将文(たいらのまさふみ:将門の弟:?~940)
伊豆守: 平将武(たいらのまさたけ:将門の弟:?~940)
下総守: 平将為(たいらのまさため:将門の弟:?~940)
 武蔵守が不在である理由は不明です。また、伊豆は坂東8ヶ国ではないのに伊豆守がいる理由も分かりません。
 その後、坂東8ヶ国が全て降伏して国印を差し出しました。将門の国家がほぼ完成したことになります。
 朝廷は坂東8ヶ国の降伏と新国司の任命を聞き、ひどく狼狽しました。
 うろたえた朱雀天皇は名僧たちを集め祈らせました。反乱軍が自称国家を設立したというのに、取り得る対策はその程度なのかと情けなくなってしまいます。
 天慶3(940)年1月。将門軍によって平貞盛の妻が捕縛されました。
 このとき、将門は
「女性の流浪者は、その本籍地に身柄を帰すのが慣例である。また、身寄りのない老人や子どもに恵みを与えるのは、昔の帝王たちがつねに行ってきたよい手本である」
と述べて、和歌を添えて衣服を与えたと「将門記」は伝えています。
 この和歌を記した歌碑が、現在坂東市岩井公民館の駐車場の敷地内に建てられています。
「よそにても 風の便りに 吾そ問ふ 枝離れたる 花の宿りを」
(遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花のあかりを尋ね求めることができます。同じように人々のうわさによって、散る花のように夫のもとを離れて寄る辺ないあなたを案じています)
 もちろん、「将門記」は後世の創作も多く含まれているようですから鵜呑みにはできませんが、将門自筆による伊勢神宮の奉納文は意外と達筆ですし、将門はなかなかの教養人だった可能性もありますね。
 将門はこうして貞盛の妻に衣服を与え、釈放するよう命じたわけですが、その指示が行き渡らず、その妻は陵辱されてしまったといいます。将門がいかに正義に従って振舞おうとしても、もはや彼の指示が行き渡らないほどに反乱軍は大規模なものになってしまったということでしょう。

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