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30年日本史00311【平安中期】兼通・兼家の牛車競争

 病の床についていた兼通は、弟・兼家の牛車が近くにやって来たと聞き、
「この数年険悪な仲ではあったが、やはり兄弟だな。見舞いに来てくれたのか」
と感慨にふけりました。家人に
「関白を兼家に譲る相談をしよう」
とまで言って、兼家を待ち受けていたのです。
 しかし、兼家の牛車は家の前を通り過ぎて内裏へ行ってしまいました。兼家は兄の病など何とも思っていなかったのです。
 兼通は激怒して、病をおして内裏へ急行することとしました。兼通と兼家、二人の牛車は都を駆け抜け、内裏へ急ぎます。
 先に到着したのは兄の兼通の方でした。円融天皇に対し
「関白職はいとこの藤原頼忠(ふじわらのよりただ:924~989)に譲りたい。弟の兼家については、右大将を免職にしてほしい」
と上奏したのです。病の床にありながら、最後の執念で天皇に遺言を託したのです。
 その後まもなく貞元2(977)年11月8日、兼通は死去し、遺言通り頼忠が関白となりました。兼家は兄との仲直りを渋ったために、関白職を逃してしまったのでした。
 頼忠は新たに関白となり、権勢を振るいました。頼忠の子・藤原公任(ふじわらのきんとう:966~1041)もまた引き上げられていきます。
 兼家は、公任が優れた才人であると聞き、
「我が子たちは公任の影すら踏むことができないだろう」
と嘆じました。
 兼家の子のうち、長男・道隆(みちたか:953~995)・三男・道兼(みちかね:961~995)は言葉もなく、黙って父の嘆きを聞いていました。しかし、五男・道長(みちなが:966~1028)だけは違いました。
「影をば踏まで面をば踏まぬ」
と有名な言葉を吐いたのです。公任の影どころか、顔そのものを踏んでやるというのです。
 道長はこの頃から負けん気の強い青年だったのですね。まあこれは「大鏡」に載っているエピソードで、後世の作り話の可能性が高いですが。
 さて、このあたりからいよいよ藤原道長や紫式部といったお馴染みの人物が次々登場する平安王朝の最盛期が始まります。
 この時代の有力な史料は、以下に掲げる3人の日記です。
・藤原道長の「御堂関白記」
・藤原行成(ふじわらのゆきなり:972~1028)の「権記」
・藤原実資(ふじわらのさねすけ:957~1046)の「小右記」
 本稿もこれら3人の日記の記述を参考に書き進めていきます。

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