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30年日本史00294【平安中期】承平天慶の乱 石井の夜討ち

 将門が新天地とした石井には、現在も将門にちなんだ史跡が多くあります。
 まず、将門自身が居住したとされる「島広山(しまひろやま)」という場所があります。これは小高い丘のような場所で、現在は住宅地となっていますがその一角が仕切られて「島広山 石井営所跡」として整備され、見学が可能です。
 さらに、将門軍の兵たちの喉を潤したとされる「石井の井戸」があります。
 将門が石井の地を見回っていたとき、喉が渇いて水が欲しくなりました。そのとき、どこからか現れた老人が、大きな石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と兵たちは喉を潤すことができました。
 不思議に思った将門が老人に名を尋ねると、老人は次のような歌を詠み、姿を消してしまいます。
「久方の 光の末の 景うつる 岩井を守る 翁なりけり」
 その水の湧き出た地は井戸として整備されることになりました。
 将門はこの井戸を作ってくれた不思議な老人を神として祀るべく、井戸の傍らに「一言神社」を建立しました。石井の井戸跡とともに、一言神社も現地に残っています。
 さて、承平7(937)年11月、朝廷から将門に対して
「平良兼、平貞盛、源護らを追捕せよ」
との官符が下されました。将門側が正義であって、平良兼、平貞盛、源護が反乱軍だというわけですね。このまま将門が上手く立ち回れば、きっと教科書には「平将門の乱を平貞盛が鎮圧した」ではなく、その逆が書かれることになっていたでしょう。
 良兼にとってひどく状況が不利になりましたが、良兼はまだまだ諦めません。将門の家来の子春丸(こはるまる:?~938)という百姓に対し、
「寝返れば郎党に取り立ててやる」
と約束し、協力を要請しました。
 誘いに乗った子春丸は、良兼の手の者を石井に手引きし、視察に協力してしまいます。
 このあたりは大河ドラマ「風と雲と虹と」でも詳しく取り上げられているのですが、これを見た私は、後で子春丸が実在の人物だと知って驚きました。
 同年12月。視察を済ませ、将門の本拠地の内情がよく分かったところで、良兼配下の精鋭80名が石井への夜討ちをかけました。
 ところが将門側は、たった10名でこれを迎え討って勝利します。10名で80名に勝つことが本当に可能なのか分かりませんが、とにかくそう伝えられています。将門の人気が高すぎて、何かと後世に誇張されてしまうようですね。
 子春丸は、翌承平8(938)年1月に裏切りが露見し、殺害されました。

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