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30年日本史00053【弥生】邪馬台国への道程 伊都国~不弥国

 伊都国以降の道のりを辿っていきましょう。
・「東南至奴國百里」
 東南に100里で「奴国(なこく)」に至ります。
 あの後漢の光武帝が金印を授けたという奴国がここに再び出てきました。金印が出土した場所は福岡県志賀島ですから、奴国はその近くにあるはずです。
 志賀島の近傍でそれらしい地名を探してみますと、目と鼻の先に「那の津(なのつ)」という地名があります。「な」という文字が共通していますから、これこそが奴国であろうと言われています。
 那の津は糸島半島から見て東にあり、南東とは言いづらいところです。多くの学者が
「そらみろ。やはり方角はずれているんだ」
と主張しているのですが、その理解でよろしいのかどうかは微妙なところですね。
 しかも、後漢書東夷伝に出てきた「奴国」は、建武中元2(57)年に後漢に朝貢した国です。今回登場した「奴国」は3世紀半ばの国で、200年ほどの差がありますが、同一視して大丈夫なのでしょうか。200年もすれば国の名称が変化することもあるでしょうし、国の首都が移転する可能性だってあります。
 また、「漢委奴国王」の金印には「倭」ではなく「委」という字が使われていることも要注意です。倭の奴国であれば「漢倭奴国王」と記載するはずです。あえて「委奴」と記載しているからには、それなりの理由があってのことかもしれません。
 そこで、「委奴」とは「イド」と読み、伊都国に当たるのだ、という説が浮上してくるわけです。それが正しいとすれば、伊都国は糸島半島ではなく志賀島のあたりということになります。
 奴国の場所について結論は得られませんが、とりあえず先に進みましょう。
・「東行至不彌國百里」
 東に100里で「不弥国(ふみこく)」に至ります。
 那の津から東の方角で適当な地名を探すと、まあ東というよりは南東なのですが、「宇美(うみ)」があります。福岡県宇美町です。たった2文字の地名である「ふみ」と「うみ」を「似てるよね」と言い切るのはさすがに無理がある気もしますが、まあ有力視されている説の一つですから、一応そのとおりに説明しました。
 さあ、不弥国までやって来ました。これが地図上で辛うじて追いかけることのできる限界です。ここから魏志倭人伝の記述は謎を深めていくのです。

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