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30年日本史00268【平安前期】応天門の変 源信への疑惑*

 前述のとおり、最高権力者たる藤原良房は、嵯峨上皇の娘・源潔姫を正室としていました。その潔姫との間に娘を一人もうけていましたが、他に子は産まれませんでした。
 良房は潔姫に遠慮して側室を持たないようにしていたため、男子を持つことができませんでした。良房はやむなく、兄・藤原長良(ふじわらのながら:802~856)の子である藤原基経(ふじわらのもとつね:836~891)を養子とし、自らの後継者として育てていくこととしました。
 その基経が、良房の後継者としての立ち振る舞いを試されることとなる事件が起こりました。「応天門の変」という複雑な事件です。
 貞観8(866)年閏3月10日。平安京の朝堂院の表玄関である応天門が、夜中に炎上して全壊してしまいます。
 この応天門は、伴氏が建設したものでした。伴氏とは、元々「大伴」という氏だったのが、大伴親王(淳和天皇)が天皇に即位したため、おそれおおいとして「伴」という氏に改めたのでしたね。この頃、伴氏の中で最も力をつけていたのは、大納言・伴善男(とものよしお:811~868)でした。
 事件の直後、伴善男が右大臣・藤原良相(ふじわらのよしみ:冬嗣の子:813~867)に対し、次のような密告をしてきました。
「左大臣・源信が私に対する嫌がらせのため、応天門に放火したようだ」
 つまり、犯人は源信だというのです。源信とは惟仁・惟喬の皇太子争いにおいて良房の味方をした人物でしたね。
 藤原良相は、左近衛中将・藤原基経に源信を逮捕するよう命じました。
 しかし基経は源信の逮捕に踏み切ることができませんでした。というのも、義父の良房は、源信の妹である潔姫を正室として娶っているのです。縁戚関係にある上、皇太子争いにおいても味方をしてくれた恩人でもある源信を、犯人と決めて逮捕してしまって良いのか、基経は迷います。
 基経が義父・良房に相談したところ、良房は
「左大臣は無実である」
と断定し、清和天皇に奏上しました。そのため源信は咎められずに済みました。
 この時代、関係者の供述だとか物的証拠だとかいった犯罪捜査の概念は全くなかったようですね。良房が
「源信は妻の兄だから犯人のわけがない」
と言えば、犯人ではないということが確定してしまうようです。
 そのまま犯人が不明のまま、事件は一旦収束したのですが、この後、事件は意外な展開を迎えることとなります。

平安神宮の応天門。これは平安時代に実際にあった応天門を8分の5のスケールで復元したもの。それでも十分大きい。

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