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30年日本史00473【平安末期】木曽義仲登場

 頼朝と仲違いした行家は、木曽谷へと向かいました。そこで源氏一族の木曽義仲(きそよしなか:1154~1184)を頼ることになります。
 木曽義仲(源義仲とも呼ばれます)は、源義賢(みなもとのよしかた:?~1155)の次男に当たります。その源義賢とは、源為義の次男に当たります。源為義とは頼朝の祖父ですから、要するに木曽義仲と源頼朝とは従兄弟に当たるということです。
 なぜ木曽の山奥に源氏の貴種がいたのかというと、話は久寿2(1155)年に遡ります。
 この年の8月16日。関東の源氏同士で所領争いが起こり、鎌倉に下っていた悪源太義平が、武蔵国大蔵(埼玉県嵐山町)を拠点としていた叔父の源義賢を討ち取りました。これを「大蔵合戦(おおくらがっせん)」と称します。
 義平の遺児・義仲は当時1歳の赤子でした。義賢方の武将・斉藤実盛が義仲を落ち延びさせるため、これを木曽の中原兼遠(なかはらかねとう:?~1181)のもとへと運びました。ちなみに斉藤実盛はその後源義朝に仕えますが、義朝が敗死したことで主君を失い、やむなく平家に仕えることとなりました。義仲の命の恩人でありながら、皮肉なことにこの後は平家方、つまり義仲の敵として立ちはだかることとなります。
 中原兼遠は、平家全盛の時代の中でいつか平家打倒の夢を叶えようと、幼い義仲に望みを託して育て上げました。
 そして治承4(1180)年、頼朝の決起を知った義仲は兼遠を呼び
「頼朝が平家を討とうとしている。私も日本に二人の将軍と呼ばれたい」
と述べました。兼遠は感慨のあまり涙にむせびながら
「まさにそのためにあなたをお育てしてきたのです」
と述べ、息子2人と娘1人、そして多数の兵をつけて、義仲を送り出したのです。
 ここで、木曽義仲の家臣たちを紹介しておきましょう。
 まず今井兼平(いまいかねひら:1152~1184)は中原兼遠の子で、乳兄弟として義仲と最も絆の深い家臣です。最後の最後まで義仲と共に戦い抜きました。
 次に樋口兼光(ひぐちかねみつ:?~1184)もまた、兼遠の子で兼平の兄に当たります。(この時代は領地の地名を苗字とするので、父子や兄弟間で苗字が異なるのは珍しいことではありません。)
 根井行親(ねのいゆきちか:?~1184)とその六男・楯親忠(たてちかただ:?~1184)の父子も有名です。ここまで取り上げた四人を「木曽四天王」と呼びます。
 そしてもう一人有名なのが、兼遠の娘である巴(ともえ)です。女でありながら一騎当千の兵といわれるほど強かったと伝わり、実在が疑問視されているようですが、平家物語や源平盛衰記で活躍する女性です。

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