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30年日本史00925【南北朝最初期】石津の戦いと顕家戦死

 一進一退の攻防が続く中、延元3/建武5(1338)年5月6日に顕家は石津・堺浦(大阪府堺市)で足利方の細川顕氏(ほそかわあきうじ:?~1352)と交戦しました。この戦いもひどく長引き、10日以上断続的に行われました。
 5月16日からは男山で戦っていた高師直も堺浦に出撃して来て、顕家との戦いに参加するようになります。
 5月22日の石津での両軍衝突は大規模なものでした。顕家は善戦したものの圧倒的な兵力差に苦しみます。やがて、僅か20人の兵とともに敵軍に完全に包囲されてしまいました。
 このとき、顕家の側近として付き従っていたのが南部師行です。顕家と師行は吉野に逃れようと敵中を突破し始めましたが、その途中で力尽きた顕家は落馬し、敵に討ち取られてしまいます。随行していた師行も同じ場所で討たれました。
 現在、顕家が討たれたと伝わる場所が2ヶ所あります。1つは大阪府堺市西区の紀州街道と石津川が交差する太陽橋という場所で、その橋のたもとには顕家と師行の供養塔が建てられています。
 もう1つは大阪市阿倍野区内で、現在「北畠公園」として整備されている場所です。しかし地図上にプロットしてみると、石津で戦った後吉野に逃げようというのに阿倍野区を通るのは不思議です。阿倍野の方は後世に整備されただけの場所で、実際に戦死した場所とは異なるかもしれません。
 この北畠公園の近くにある阿部野神社(なぜか阿倍野ではなく阿部野と表記されます)は、北畠親房・顕家父子を祀っている神社です。大日本帝国時代、南朝を正統とする皇国史観の中で楠木正成や北畠顕家が徹底的に美化されたわけですが、神社はまさにその只中の明治時代に建てられたものなのです。
 神社内には顕家の銅像がありますが、こちらはNHK大河ドラマで「太平記」が放映されたことを記念して建てられたものです。顕家は凛々しい美青年であったと伝わっていることから、なんとこの大河ドラマでは後藤久美子が顕家を演じました。女性アイドルが青年役を演じるとは、珍しい人選です。
 さて、新田義貞と並ぶ南朝最大のヒーロー、北畠顕家が20歳の若さで戦死してしまいました。顕家は公卿の地位に産まれながら、奥州征討や鎌倉攻略戦では武士さながらの活躍を見せました。さらに死の直前に後醍醐天皇に献上した上奏文には漢籍への教養の深さが表れており、まさに文武両道、無双の人物であったと考えられます。その顕家を倒したことは、足利方の士気を大いに高めたに違いありません。
 残る南朝方の大物は新田義貞だけとなりました。その義貞にもまた、死期が迫っているのです。

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