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30年日本史00109【人代前期】タケハニヤスヒコの反乱

 さて、四道将軍らが派遣先でどのような戦いを経たか、古事記・日本書紀はほとんど描いていません。唯一残っているエピソードは、北陸に派遣されたオオビコについてのものです。
 崇神天皇10(B.C.88)年9月27日。オオビコが北陸に向かうべく、兵たちを率いて和珥坂(わにさか:奈良県天理市)を歩いていると、こんな歌を歌う少女を見かけました。
「ミマキイリビコよ。自らの命を狙っている者がいることも知らないで」
 ミマキイリビコとは崇神天皇の名です。オオビコは少女を呼びとめようとしますが、少女はすっと消えてしまいました。
 崇神天皇の命を狙う者がいる。オオビコはすぐに大和に戻って、この情報を天皇に報告しました。すると、天皇の傍に仕えていたモモソヒメが、
「これはタケハニヤスヒコ(武埴安彦)が反乱を起こそうとしている兆しである」
と言いました。
 タケハニヤスヒコとは孝元天皇の子。崇神天皇から見ると伯父に当たります。自らが皇位を継承できなかったことに不満を感じていたのでしょうか。
 崇神天皇は反乱を鎮圧するため、オオビコとヒコクニブク(彦国葺)を山城国(京都府)に派遣しました。すると、木津川(木津川市)でタケハニヤスヒコが待ち構えていました。
 戦を始めるに当たって、ヒコクニブクとタケハニヤスヒコは互いに矢を射合いました。当時は戦闘開始の合図としてそういう文化があったようですね。
 先にタケハニヤスヒコが放った矢は何にも当たらず落ちました。その後、ヒコクニブクが放った矢は見事にタケハニヤスヒコに当たり、タケハニヤスヒコは死にました。
 こうして戦闘が始まりました。といっても、最初に大将が死んでしまったわけですから、まともな戦いになりません。タケハニヤスヒコの軍はことごとく敗走しました。敗走の途中、兵たちは糞をもらしたため袴を脱ぎ捨てました。この場所が「糞袴」と呼ばれ、「樟葉(くずは)」という地名になりました。現在の大阪府枚方(ひらかた)市です。
 こうして崇神天皇は地方を平定し、伯父の反乱をも鎮圧し、支配を固めていきます。
 さらに、古事記・日本書紀では崇神天皇が初めて徴税を開始したと伝えられています。
むしろそれまで徴税なしでどうやって国を支配していたのでしょうね。
 崇神天皇はヤマト政権を日本列島随一の中央政権に押し上げた中興の祖と位置付けられるでしょう。その崇神天皇を支えるモモソヒメは、疫病を収束させたりタケハニヤスヒコの反乱を言い当てたり、預言者として活躍しています。これこそが邪馬台国の卑弥呼に当たる人物だとの説もあるほどです。確かに神がかって預言するという点は、卑弥呼の「鬼道」に通じる点がありますが、モモソヒメはあくまで崇神天皇を支える役割ですから、どうも卑弥呼のイメージとはそぐわないようにも思われます。
 モモソヒメは奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳に埋葬されています。次回はこの箸墓古墳の由来についてお話ししましょう。

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