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30年日本史00283【平安前期】歌人伊勢 宇多上皇と敦慶親王

 伊勢は温子に仕えているうち、今度は宇多天皇の寵愛を受けるようになります。伊勢にとっては第三の恋ということになります。
 いつのことかはっきりしませんが、伊勢は宇多天皇の子を産んだようです。しかし悲しいことに伊勢の産んだ男子は8歳で亡くなり、さらに昌泰2(899)年に宇多上皇が出家し法皇となったことで、伊勢は宇多法皇に会うことすら叶わなくなりました。
 この頃、伊勢の詠んだ歌を挙げておきましょう。
「死出の山 越えて来つらむ ほととぎす 恋しき人の 上語らなむ」
(死者の世界から山を越えてきたというほととぎすよ。どうか恋しい人の身の上を語っておくれ)
「見し夢の 思ひ出でらるる 宵ごとに 言はぬを知るは 涙なりけり」
(見た夢の思い出がまだ消えやらぬ宵のうち。この悲しみを口に出したりはしないのに、私の涙はこの悲しさを知っている)
「空蝉の 羽におく露の 木隠れて しのびしのびに 濡るる袖かな」
(はかない蝉の命。その蝉の薄い羽の上に置かれた露が、木陰にこっそりと隠れているように、私もまた身を忍ばせながら、涙で袖を濡らしているのです)
 この宇多法皇との別れを経た後、伊勢にとって最後の恋となったのが敦慶親王(あつよししんのう:888~930)との恋愛でした。
 敦慶親王は、宇多法皇の四男です。いつ頃に知り合い、いつ頃から寵愛を受けるようになったかはっきりしませんが、伊勢は敦慶親王の子を産みます。この女子こそ、のちに三十六歌仙の一人となる女流歌人・中務(なかつかさ:912?~991?)です。中務の和歌の才能は母譲りなのですね。
 伊勢が生涯に詠んだ歌の中で、最も有名なのは百人一首に収められたものでしょう。
「難波潟 みじかき葦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや」
 難波潟(なにわがた)というのは、大阪湾の入り江のことです。当時、大阪・淀川の川沿いには、葦(あし:イネ科の植物)がたくさん繁殖していました。伊勢は
「難波潟に生えている短い葦の、節と節の間くらいのほんの短い時間も、あなたと会うことなしにこの世を生きていけというのですか」
と自分を捨てた藤原仲平に対して歌ったのです。
 ひたすら失恋の歌を詠み続けた伊勢は、晩年は古曽部(こそべ:大阪府高槻市)に隠棲しました。伊勢がいつ頃死んだかは分かっていませんが、60歳頃まで生きていたことが分かっています。

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