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30年日本史00653【鎌倉中期】87代四条天皇即位

 貞永元(1232)年10月4日。後堀河天皇は病のため、子の秀仁親王に譲位しました。この譲位は後堀河天皇の本意ではなく、早く外祖父の地位に就任したい九条道家が急かしたてたものでした。
 また、九条道家は大胆にも幕府の承認なくこの譲位を強行しました。承久の乱以降、事あるごとに幕府の意向を尋ねることとなっていた朝廷にあって、道家の態度は強硬でした。
 こうして1歳7ヶ月の四条天皇が即位しました。世間では
「近衛天皇や六条天皇のように、幼少で即位した天皇は早世だった。不吉な予感がする」
といった噂が立ったといいます。
 道家の幕府への態度は徐々に大胆になっていきます。文暦2(1235)年には、隠岐の後鳥羽上皇と佐渡の順徳上皇を帰洛させることはできないか、幕府に働きかけたのです。
 順徳上皇が
「ながらへて たとへば末に かへるとも うきはこの世の 都なりけり」
(わたしは命永らえて、都に再び帰ることができるのだろうか。この世は都といっても、つらいことばかりだ)
と書き送ると、道家が
「いとへども 猶ながらへて 世の中に うきをしらでや 春をまつべき」
(嫌な世の中ですが、永らえて待っていてください。きっと春がやってくるはずです)
と返歌するほど、道家は順徳上皇の復権を強く願っていました。
 しかし、泰時はすぐにこれを拒絶しました。いかな徳と道理で統治する穏健な泰時であっても、幕府に歯向かった者の復権は決して許さないという強い決意がありました。
 この後も、道家は何度も順徳上皇の帰洛を願い出ては、泰時は絶対にこれを許さない、というやり取りを繰り返すこととなります。
 嘉禎4(1238)年は、その道家にとってまさに全盛期といえる年でした。
 2月9日には一条家の養子に入っていた息子・一条実経(いちじょうさねつね:1223~1284)が左近衛大将となり、2月17日には約20年ぶりに上洛してきた息子・4代将軍頼経と対面を果たし、閏2月16日には息子・慈源(じげん)が天台座主に任ぜられ、4月11日には孫に当たる九条忠家(くじょうただいえ:1229~1275)の元服式が行われました。
 順徳上皇の復権だけは叶わなかったものの、朝廷での発言権ではもはや道家に並び立つ者はいなかったでしょう。

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