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30年日本史00540【鎌倉初期】平泉到着

 文治3(1187)年2月10日。義経一行は平泉に到着しました。藤原秀衡は温かく一行を出迎え、7年ぶりの再会を祝しました。
 秀衡は、15歳から21歳までの義経を親代わりになって育ててきた人物です。かわいがってきた義経との再会は嬉しかったでしょうが、既にお尋ね者となっている義経を匿うのは極めてリスキーな行為でした。
 というのも、秀衡と頼朝の間には既に対立が生じ始めていたのです。文治2(1186)年、頼朝は
「陸奥から都に貢上する馬と金は、今後は自分が仲介する」
との書状を秀衡に送り、牽制を仕掛けていました。それまで源氏の仲介などなしに、直接都と交渉してきた秀衡にとって、まるで頼朝の配下に入れというに等しく、ひどく無礼な申し出です。しかし秀衡は頼朝との衝突を避けるべく、馬と金を鎌倉に届けました。
 そうした微妙な時期に、義経が秀衡を頼って逃げてきたというわけです。
 義経が平泉にやって来てから2ヶ月が経った頃、頼朝は朝廷を通して秀衡に、
「東大寺再建の鍍金が多く必要なので三万両を納めよ」
と言ってきました。しかし、頼朝に三万両を納めたところで、本当に頼朝はこれを朝廷に届けてくれるかどうか分かったものではありません。
 秀衡は、
「三万両は甚だ過分であり、先例で広く定められているのも千両に過ぎない。特に近年、砂金はほぼ掘り尽くしているので、求めには応じられない」
と返答しました。頼朝はこの返答に納得せず、朝廷に
「院宣を断るとは奇怪である。秀衡には加えて強く要請をしたい」
と述べています。
 9月4日には、頼朝は朝廷に
「秀衡が義経を匿い、反逆を企てている」
と訴えたため、事の次第を問い質す院庁下文が秀衡のもとに送られてきました。この頃には、義経が平泉に潜伏していることが既に露見していたようです。秀衡は「異心はない」と弁明しましたが、このとき、頼朝が送った役人も陸奥国に派遣され、朝廷に
「既に反逆の用意があるようだ」
との報告がなされました。
 秀衡は徐々に追い詰められていきます。

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