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30年日本史00217【奈良】藤原広嗣の乱

 天平10(738)年。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ:?~740)が大宰少弐(だざいのしょうに:大宰府の中で大宰帥、大宰大弐に次ぐナンバー3の役職)に左遷されました。広嗣は藤原四子の一人である宇合の長男です。しかし親族を誹謗中傷するなど性格に難があり、父親である宇合自身が排斥しようとしていた人物でした。
 天平12(740)年8月29日。大宰府にいたその藤原広嗣が
「吉備真備と玄昉を追放すべし」
との上表文を提出し、その後9月3日に大宰府で挙兵したとの報が平城京にもたらされました。広嗣にしてみれば、自分を左遷した中央政府の中でめきめき出世していく吉備真備と玄昉は、自らを陥れた政敵ということになるのでしょう。ただし、吉備真備と玄昉が果たして広嗣の左遷を主導した人物なのかどうかは定かではありません。そもそも父親である宇合自身が広嗣を排斥しようとしていたわけですから、広嗣が吉備真備と玄昉を恨むのは恐らく筋違いの話なのだろうと思います。
 政府は、蝦夷征討で活躍した大野東人(おおののあずまんど:?~742)を征西大将軍に任じ、九州へ派遣しました。政府側の記録によると、征西軍の数は約17000人とのことですが、誇張があるでしょう。
 政府は征西軍を派遣するだけではなく、同時に佐伯常人(さえきのつねひと)、阿部虫麻呂(あべのむしまろ:?~752)を勅使に任じ、征西軍に同行させました。戦いと和解の両面で対応しようというのです。
 広嗣軍と征西軍は、板櫃川(いたびつがわ:福岡県北九州市)を挟んで対峙しました。勅使の佐伯常人が呼びかけると、広嗣は下馬して二度拝礼し、
「私は朝廷に乱をいどむものではない。ただ乱人2人を捕らえようとしているだけである」
と述べました。反逆を起こしたとはいえ、勅使を尊ぶ心は持っているようです。
 常人が「ではなぜ兵をあげるのか」と質問すると、広嗣は返答に詰まってしまいました。これを見た広嗣軍の兵たちに動揺が走り、投降する者が多数出ました。
 政府は、広嗣が「天皇に反逆を起こしているわけではない」と主張していることを知って、あえて征西軍とは別個に勅使を送ったのでしょう。橘諸兄の計略でしょうが、なかなかの策士ですね。
 こうした中、戦闘が開始されますが、士気を失った広嗣軍に勝機はありません。敗北して西へ西へと敗走していきます。広嗣は済州島へ逃亡しようとして船に乗り込みましたが、逆風で船がなかなか思うように進みません。10月23日、広嗣は値嘉嶋(ちかのしま:現在の長崎県佐世保市宇久島)で捕らえられ、11月1日、唐津(佐賀県唐津市)で処刑されました。
 この藤原広嗣の乱は、速やかに鎮圧されたわけですが、政府の動揺は予想以上に大きいものでした。

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