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30年日本史00821【建武期】鎌倉将軍府の機構

 さて、
・義良親王と北畠親房・顕家は陸奥に
・成良親王と足利直義は鎌倉に
それぞれ送り出されたわけですが、彼らに与えられた権限は思いのほか大きなものでした。
 まず鎌倉については、関東10ヶ国に対する統治権を与えられており、
・将軍家の家政機関である政所(まんどころ)
・配下の武士たちを管理する侍所(さむらいどころ)
・訴訟事務を扱う引付衆(ひきつけしゅう)
・将軍の馬を管理する大御厩(おおみうまや)
・将軍御所の警護を行う関東廂番(かんとうひさしばん)
といった機構を備えていました。これはいずれも旧鎌倉幕府にもあった組織です。また、発給文書をみると関東10ヶ国内の寺院に対して、その職を安堵したり補任したりしているものがあります。
 もちろん「全ての所領は綸旨でもってその所有権を確認する」という後醍醐天皇の大原則は東国にも適用されており、成良・直義らに与えられたのは比較的トリビアルな人事や所領の決定権に過ぎませんが、それでも鎌倉幕府と似た機構を持たされているとは穏やかではありません。まるで足利家が鎌倉幕府と似たような新たな政権を築こうとしているようではありませんか。事実、多くの学者はそう解釈し、直義が立ち上げた政治機構を「鎌倉将軍府」と呼んでいます。(室町時代に入ると「鎌倉府」となります。)
 さらに中世史学者の桃崎有一郎氏は、面白い事実を発見しています。直義は11月8日に相模守に就任しているのに、なかなか京を出発しようとせず、結局出発したのは12月14日のことでした。そして12月29日に鎌倉に到着しています。このスケジュールは、建久元(1190)年に上洛した源頼朝が鎌倉に戻った際のスケジュールと全く同じなのです。ますます幕府と同様のものを開設したいという直義の意図が透けて見えるようです。
 しかし、桃崎氏はこの時点で直義がそこまで意図していたかどうかは分からないとも指摘しています。というのも、鎌倉将軍府の政治機構と同様のものを奥州の北畠父子も多賀城(宮城県多賀城市)に立ち上げているので(こちらは陸奥将軍府と呼ばれています)、これら政治機構の構築は後醍醐天皇の指示通りに行っただけとも考えられるのです。
 いずれにせよ、直義は中央政権からそこそこ独立性の高い政権を鎌倉に立ち上げました。この政権がここから室町幕府へと発展していくのです。してみると、室町幕府は「京で尊氏が立ち上げたもの」ではなく「鎌倉で直義が立ち上げたもの」といえるかもしれません。

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