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30年日本史00378【平安後期】後三年の役 金沢柵の戦い

 清原氏の内紛に対し、義家は
「成衡の養子縁組をなかったことにして、清衡・家衡の2人が東北を支配するべきだ」
と提案しました。
 確かに成衡は養子となったばかりで、まだ何一つ清原家の棟梁としての実力を身につけていませんから、家督を継いでも誰もついてこなかったでしょう。清原家はこの提案に大人しく従うこととなります。
 家督継承権を失った成衡は、大人しく都に帰ったとも、戦を起こし敗死したともいわれており、その後どうなったかは定かではありません。
 こうして、奥6郡と呼ばれる東北の各国は清衡・家衡が分割統治することとなりましたが、それを契機として、更なる戦乱が惹起されてしまうのです。
 というのも、源義家の裁定は実に奇妙なものでした。奥6郡のうち
・南3郡の胆沢(奥州市)・江刺(奥州市)・和賀(西和賀町)を清衡に、
・北3郡の稗貫(花巻市)・紫波(紫波町)・岩手(岩手町)を家衡に、
分割して統治させるというのです。
 6郡が3郡と3郡に分かれているわけですから、一見平等な分割のように思えますが、実際はそうではありません。南の3郡の方が肥沃な土地で耕作に適していたのです。
 当然、家衡は不満を抱きます。なぜ義家が清衡をえこひいきしたのか分かりませんが、恐らく義家は家衡を嫌い、滅ぼそうと企んでいたのでしょう。
 さらにその後、義家は家衡に対してあからさまな仕打ちに出ました。家衡に
「清衡邸に一緒に住むように」
と命じたのです。家衡が反乱を起こさないよう監視するためとみられています。
 3年の間、隠忍自重していた家衡でしたが、やがて応徳3(1086)年に行動を起こしました。なんと清衡邸に火を放ち、清衡の妻子を殺害してしまったのです。
 こうして再び戦乱が始まってしまいました。その後、家衡は出羽国の沼柵(ぬまのさく:秋田県横手市)に立て籠もりました。義家がこれに攻撃を試みますが、敗退してしまいます。
 翌寛治元(1087)年。義家は清衡と組んで、家衡を再度攻撃しました。これが後三年の役の最大の戦闘となる「金沢柵(秋田県横手市)の戦い」です。
 現在、この金沢柵の跡地には「平安の風わたる公園」が整備され、清原清衡・源義家・清原真衡・清原武衡の4人の像が向かい合うように設置されています。これほど多くの武将の銅像が置かれた戦績は珍しいですね。なお、この公園の最寄り駅の名は「JR後三年駅」です。

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