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30年日本史00922【南北朝最初期】雲出川/櫛田川の戦い

 延元3/建武5(1338)年2月。北畠顕家は足利軍との戦いを避け、美濃から伊勢に入りました。伊勢は北畠家の領地ですので、そこに行けば領民から食糧や水を補給してもらうことが期待できるからでしょう。
 しかし、敵を目前にして逃亡したことは、敵を大いに勢いづかせてしまいました。足利軍はこれは好機とばかりに伊勢へと追撃してきます。
 足利軍のうち、北畠軍に追いつくことができたのは、諏訪部扶重(すわべすけしげ)率いる一隊でした。諏訪部は2月14日に雲出川(くもずがわ:三重県津市)で合戦を仕掛け、さらに2月16日には櫛田川(くしだがわ:三重県松坂市)で合戦を仕掛けます。この戦いの詳細は伝わっていませんが、決着がつかなかったようです。
 見事追撃をかわした顕家は、2月21日に伊賀を越えて大和(奈良県)に入りました。
 ここに来て、顕家に仕える結城宗広が進言しました。
「今回の道中では、合戦に次々と勝利して上洛への道を切り開いて来ました。しかし青野原の合戦ではいささか勝機を逸してしまい、黒地橋を渡ることができませんでした。このまま吉野の帝にお会いするのは不甲斐ないことと思われます。この勢いでもって都へ攻め上り、敵を一気に追い落としましょう」
 青野原で大きな被害を出した北畠軍でしたが、この時点でだいぶ戦力が回復していたのでしょう。この結城宗広の積極策に顕家も同意し、北畠軍は大和から京へと北上する作戦を立て始めました。
 この情報を得た尊氏はひどく驚き、
「大和の北畠軍を殲滅せよ」
と命令を発しますが、なかなか討手を買って出る者がいません。尊氏・直義兄弟が人選に悩んでいたところに、高師直が、
「この大敵を打ち破るには、桃井兄弟以上の者はいないでしょう。彼らは鎌倉から長旅を経てあちこちで戦っていたとき、常に敵に立ち向かっていった士気旺盛な者たちです」
と推薦しました。
 こうして、桃井直常とその弟・直信(ただのぶ)に北畠顕家攻撃の命が下されました。これを知った顕家は、般若坂(はんにゃざか:奈良県奈良市)で桃井軍を迎え討つこととなります。
 般若坂とは、般若寺の近くにあることからこのように呼ばれている坂です。般若寺は平重衡による南都焼き討ちの際に最初に放火された寺として(00470回参照)、さらに護良親王が一時的に身を隠した場所として(00754回参照)、登場したことのある寺ですね。

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