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30年日本史00504【平安末期】維盛入水

 さて、屋島に逃れていた平家軍の陣中で、平維盛はどうしても都に残してきた妻子と一目会いたいと考えるようになっていました。
 寿永3(1184)年2月19日。維盛は妻子に会うべく、僅かな供を連れて密かに屋島を抜け出しました。行く先は紀伊(和歌山県)の港でした。
 維盛は紀伊から都を目指すつもりでしたが、ここで
「重衡が都を引き回された」
との情報が入ってきました。もし捕縛されれば、維盛もまたそのような屈辱を受けなければなりません。家名を汚したくないと思った維盛は、やむなく高野山に上りました。
 高野山には旧知の僧・斉藤時頼(さいとうときより)がいました。維盛はその時頼から受戒し、出家しました。もはや妻子と再会することを諦め、死ぬつもりだったのでしょう。
 その後維盛は熊野三山それぞれに参詣しました。修行僧たちは維盛のあまりのやつれ果てた姿に驚いたといいます。
 参詣を終えた維盛は、海へ出ました。そこで松の木を削って
「平維盛、法名浄円、二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」
と書きつけ、沖へ漕ぎ出していきました。そこで西方浄土に向かって手を合わせ、念仏を唱えて海に身を投げました。
 こうして亡き平重盛の子のうち、長男維盛と三男清経が入水を遂げたこととなります。残された次男・資盛は、
「私も生き永らえる気力を失った」
と言ってさめざめと泣いたと伝えられています。
 維盛と交流のあった歌人・建礼門院右京大夫は、光源氏の再来ともいわれた美青年・維盛の死を悼み、2首詠みました。
・春の花の 色によそへし おもかげの むなしき波の したにくちゐる
(桜梅少将などと呼ばれ、その美しさを春の花の色になぞらえられていたあのお方の面影は、波の下に空しく朽ちてしまった。)
・かなしくも かかるうきめを み熊野の 浦わの波に 身をしずめける
(悲しくもこのような憂き目を見て、あのお方は熊野の海岸の波に身を沈めたのだ)
 さて、維盛が「私が死んだら再婚せよ」と言って都に残した妻はどうなったかというと、平家物語によると夫の死を悲しんで出家したとされています。一方史実では、どうやらその後、公家と再婚したようです。維盛の遺言通りに、第二の人生を幸せに過ごせたのかもしれません。

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