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激論昭和史008 政党政治を葬ったのは右翼か軍部か、それとも…… ~浜口内閣③~

さて、私が個人的に大好きな浜口雄幸が、歴史から退場する場面がやって来ました。思い入れがあって、ついつい長くなってしまうのですが、どうか最後までお付き合いください。

浜口遭難

保守美「いよいよこの事件をお話しするときが来ましたね。昭和5年の……」

左代子「1930年ね」

保守美「11月14日、浜口首相は岡山の陸軍大演習を視察するため、東京駅から東海道線に乗り込もうとしていました

史織理「大体何が起こるか分かってきました……」

右比古「ちなみにこの日、外交官の広田弘毅は駐ソ連大使に異動することが決まって、神戸港経由でモスクワに向かうため、東京駅から特急に乗り込もうとしてたんだ。その広田を、外務大臣の幣原喜重郎が見送りに来ていた。歴代首相の3人がたまたま東京駅に揃った日に、この悲劇は起こったんだよな」

左代子「ザ・雑学って感じのエピソードありがとう」

保守美「浜口が特急つばめに乗り込もうと東海道線ホームを歩いていたとき、事件は起こりました。待ち構えていた青年が突然浜口に向かって銃を発砲。浜口は腹部を撃たれて倒れます」

撃たれた直後の浜口(wikipediaより)

史織理「ああ、やっぱり……」

リベ太「浜口はこのときのことを回顧録で『ステッキくらいの物体を大きな力で下腹部に押し込まれたような感じであった』と振り返っているよ」

浜口雄幸の随感録

史織理「めちゃくちゃ痛そう……」

右比古「広田と幣原は別のホームにいて、銃声は聞こえなかったらしい。人だかりができていたせいで、幣原はとりあえず広田を見送ってから浜口のもとに駆け付けたそうだ」

リベ太「そこで浜口はあの有名な言葉を言うんだよね。『かかることは男子の本懐である』ってね」

左代子「テロに遭うことは覚悟の上だったってことかしら」

右比古「まあ、本当は言ってないという説もあるけどな」

保守美「浜口はすぐに東大病院に運ばれ、緊急手術の結果、一命を取り留めました」

史織理「あー、良かった。犯人はどんな人物だったんですか?」

左代子「右翼団体に加盟していた青年で、名前は覚えなくて良いけど、佐郷屋留雄(さごうやとめお)。このとき21歳よ」

浜口を撃った佐郷屋留雄(wikipediaより)

史織理「右翼だから、リベラル寄りの浜口内閣が許せなかったってことですか?」

左代子「そうね。佐郷屋は取調べで、『統帥権を干犯した浜口が許せなかった』と供述したわ。でも『統帥権干犯とは何か』と聞かれて、答えられなかったらしいの」

史織理「え??? 肝心なところが分かってないじゃないですか!」

リベ太「そう。『統帥権干犯というのは政治家が軍事に口出しすること』という程度にしか理解してない人たちが、次々と統帥権干犯を叫び出したんだ。本来ならば議会のコントロールを受けるべき軍政の部分と、コントロールの外とされている軍令の部分とがあるのに、その区別も分からず叫んでる人は多かったんじゃないかな」

左代子「要するに、右翼のスローガンとして利用されたのよ。軍人以外が軍事に口出しすると『統帥権干犯』と言って怒られるなんて、ひどい時代になったものよね」

保守美「浜口が撃たれたホームの真下には、現在『浜口首相遭難現場』というプレートが掲げられています」

浜口首相遭難現場のプレート(wikipediaより)

史織理「遭難って、雪山とかで起こる出来事じゃないんですか?」

リベ太「遭難というのは、大変な目に遭うこと全般を指す言葉だから、浜口遭難という言い方は自然だよ。ちょっと古い言い回しで、最近は使わないけどね」

左代子「浜口首相遭難現場って、結構分かりにくい場所にあるのよね。東海道新幹線乗り場の近くなんだけど」

右比古「ちなみに東京駅には、原首相遭難現場もある。東京駅の首相遭難現場で待ち合わせるときには、原敬なのか浜口雄幸なのか、よく確認が必要だぜ」

左代子「いないわよそんな人!」

リベ太「この『激論昭和史』の作者は、浜口首相遭難現場がなかなか見つからなくて駅員に聞いたんだが、駅員5人くらいに聞いたのに誰もこの場所を知らなかったらしいよ」

幣原、首相代理となる

保守美「浜口が東大病院に入院し、外務大臣の幣原喜重郎が臨時首相代理に選ばれました。そして襲撃から2ヶ月後の昭和6年……」

左代子「1931年ね」

保守美「1月22日に、立憲政友会の鳩山一郎から緊急動議が出されました。『幣原の臨時首相代理は認められない、首相自らが予算の説明をできないのなら、総辞職すべきだ』というのです」

立憲政友会・鳩山一郎議員(wikipediaより)

史織理「それひどくないですか? テロに屈しろと言ってるようなもんじゃないですか」

左代子「そう。この頃の立憲政友会はもうダメね。浜口内閣を倒閣できるなら、統帥権独立やテロ行為をも容認しちゃう人たちなのよ」

リベ太「まあ、この総辞職を求める緊急動議は否決されたものの、先行きに不安を感じさせる一幕だったよね」

議場での大乱闘

保守美「2月2日には、さらなる混乱が起こります。衆議院予算委員会で、政友会の中島知久平(なかじまちくへい)議員が、ロンドン海軍軍縮条約について幣原首相代理に質問しました」

右比古「中島知久平というのは、中島飛行機製作所の創業者で『昭和の飛行機王』と呼ばれる人物だ。覚えておいた方が良いぜ」

左代子「受験では絶対要らないわ」

保守美「幣原の答弁は、『現にロンドン条約はご批准になっているということをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではないということが明らかであります』というものでした。これを聞いた政友会議員たちは立ち上がり、『取り消せ! 取り消せ!』と絶叫しました」

史織理「幣原の答弁の何が問題なんですか?」

リベ太「幣原の答弁は、いやしくも天皇陛下に責任を転嫁するものだ、というわけだよ。批准は天皇の名においてするものだからね」

保守美「野党議員たちは委員長席に押しかけ、大混乱の中で45分間の中断となりました。再開された後もまた紛糾し、委員会は流会となります」

史織理「うわー。今も昔も変わらないですね」

保守美「さらに2月6日の予算委員会も乱闘騒ぎの中で流会となり、廊下で流血大乱闘が起こりました。幣原はこの乱闘で大活躍だったようで、回顧録にすごいことが書かれています」

私が予算委員会を出ようとすると、室内の一隅に沿って暖房のラジエーターがある。今日のような上等の物じゃないから、外部に露出している。そのラジエーターの陰に誰か隠れている。変なところに人がいると思ってそこを通り過ぎると、その者が後ろから私のズボンを引っ張った。私がもしそれで倒れでもしようものなら、当時室内には議員や傍聴者が立錐の余地もないほど混み合って退場中であったから、勢に押されて一斉に私の身上に倒れ重なり、私をふみにじったであろう。
そんな策略があろうとは知る由もなかったが、私は即座に振り向きざま、足を挙げて、靴のかかとで、その男の額をガーンと蹴った。額のところから血が流れて、その男はヨロヨロと後ろへ倒れた。私は知らん顔をして、廊下をゆうゆうと自室へ帰った。
これは別段武勇伝として誇るべき話じゃない。ただとっさの機転に過ぎないが、とにかく額の真中に生傷をつけているので、その人ということは分かる。たしか院外団の者らしかったが、眉間に傷を受けたとあっては恥だから、新聞にも名が出ず、そのままになった。人を蹴って、怪我をさせて、結局蹴り得というわけである
幣原喜重郎『外交五十年』日本図書センターより

史織理「え、『蹴り得』ってどういう意味ですか?」

右比古「人を蹴って快感が得られたからお得だったということだろ」

史織理「ドン引きなんですけど……」

リベ太「いやはや、ひどい首相代理があったものだね」

外務大臣・幣原喜重郎(wikipediaより)

保守美「2月12日。幣原首相代理は遂に失言を認めて取り消し、議会は再開されましたが、東京朝日新聞はこの10日間に渡る審議中断を『あさましき事態』と書きたてました」

史織理「与党も野党も、どっちもどっちの浅ましさですね」

保守美「療養中の浜口は、新聞でこのありさまを見て、『やはり自分が議会に出席しなくては』との思いを駆り立てました。医者は『命の保証ができない』と言って強く止めましたが、浜口は断固登院すると言って聞きませんでした」

左代子「このときの浜口の言葉がすごいのよ。『命にかかわるなら約束を破っていいというのか。自分は死んでもいい。議政壇上で死ぬとしても、責任をまっとうしたい』って言うのよ。こんな覚悟を持った政治家が現代にいるかしら」

右比古「それ、浜口を過度に美化した城山三郎の小説『男子の本懐』に載ってるやつだろ。後世の創作じゃねえのか?」

左代子「城山先生の取材はしっかりしてるから、本当よ。きっと」

保守美「後で分かったことですが、このときの浜口の術後の経過は良くありませんでした。放線菌が脾臓付近で異常増殖して硬結を作り、これが胃の底部を圧迫し、腸を狭窄していたんです」

史織理「ちょっと何言ってるか分からない……」

リベ太「多分作者も分かってなさそうだね。医学の知識は皆無だし。浜口の伝記を丸写ししただけだろうね」

保守美「断固として登院して、議会に対して答弁するというこの決断が、浜口の寿命を縮めてしまうことになります」

史織理「どきどき……!」

命を懸けた登院

保守美「昭和6年の……」

左代子「1931年ね」

保守美「3月10日午後2時。浜口は衆議院本会議場に入りました。このとき、浜口の体内にはまだ弾丸が摘出できずに残っていました。痛み止めの注射を打ってはいましたが、顔面は蒼白でした」

史織理「うわあ……大丈夫かなあ」

保守美「3月11日。政友会の島田俊雄(しまだとしお)議員からの質問が始まりました。島田は『浜口首相が全快されて出席されたことを喜ぶものであるが』と前置きしましたが、誰の目から見ても浜口は全快どころか憔悴しきった状態でした。島田はそこから、首相代理の法的根拠、軍縮条約、不景気問題について質問を列挙し、最後に『これらについてぜひ首相の言明を承りたいが、お見受けするところ健康はまだ十分でないようである。かかる健康状態で議会に臨まれることは、野党としては甚だ迷惑である』とまで述べて演説を終えました」

史織理「ひどい! 『予算委員会で首相自身が説明しなきゃ納得できない』と言っておいて、来たら来たで『迷惑だ』って言うんですか!?」

リベ太「このときの様子について、若槻礼次郎は次のように書いているよ」

私は、演壇に立った浜口を見て驚いた。あんなに疲労している人間が議会へ出るというのは、誠に無理な話で、こういう人間を議会へ引っ張り出すということは、こんな残酷なことがあるものかと、痛憤にたえなかった。浜口はそれでも、一通りの挨拶をした。しかしその挨拶も、すらすらとはできず、とぎれとぎれで、すこぶる苦しげな様子であった。
若槻礼次郎『明治・大正・昭和政界秘史』講談社学術文庫より

史織理「政友会がだいぶ嫌いになって来たかも……」

若槻礼次郎の回顧録

保守美「3月27日に第59議会が終了しましたが、このときの無理がたたり、浜口は再度入院することになります。そして4月9日、再度の手術が行われました。その経過も良くありませんでした。遂に総辞職を決意した浜口は、若槻を病院に呼び出し、首相職を託します。4月13日の閣議で内閣総辞職が決定され、14日、第二次若槻内閣が成立しました」

史織理「憲政の常道ってやつですね。でも、憲政の常道では野党第一党の党首が次の首相になるんじゃ……?」

リベ太「何らかの失政によって内閣が倒れたときは野党第一党が次の政権を担うんだけど、今回はテロだからね。テロに屈するわけにいかないから、同じ政党から次の首相を出すことになったんだよ」

浜口の死

保守美「浜口内閣の話はここで終わりなんですが、せっかくなので、浜口の最期までお話ししておきましょう」

史織理「お願いします」

保守美「総辞職後、悪化していた浜口の容態は、一時は快方に向かうかに見えました。6月に退院して自宅療養していた浜口でしたが、8月2日、再び悪寒と痙攣に襲われ、寝たきりとなりました。そして8月26日朝11時半、浜口は息を引き取りました。死ぬ間際、家族に『みんなの顔がまだ見えるぞ』と言ったのが最後の言葉でした」

史織理「ああ……浜口さん……」

リベ太「浜口の死を聞いて、最初に駆け付けたのは若槻首相だった。若槻は駆け付けたものの、どうしていいか分からず、玄関ホールをうろうろするばかりだったそうだ。次に駆け付けた井上準之助蔵相は、玄関に入ると同時に大声をあげて泣きだしたという。井上の号泣は、見栄っ張りな井上らしからぬ姿で、周囲を驚かせたそうだよ」

保守美「8月29日、浜口の葬儀が立憲民政党の党葬という形で、日比谷公園にて行われました」

左代子「これこそ、日本の政党政治が滅びた日かもしれないわね」

右比古「浜口の死が政党政治の終わりだってのか? 普通は五・一五事件をもって政党政治の終わりと捉えると思うがな。だって、浜口内閣の後も第二次若槻内閣、犬養内閣と政党内閣が二つ続くんだぜ」

リベ太「いや、左代子の主張は分からないでもないな。浜口の死の僅か3週間後の9月18日に満州事変が起こるんだけど、満州事変に対して政党内閣はあまりに無力だったからね。若槻首相も幣原外相も、『統帥権干犯』を盾とする軍部に対して、何も要求できなかったじゃないか」

左代子「そうよ。第二次若槻内閣の次に組閣した犬養内閣もテロの標的になって、何もできずに総辞職してしまったわ。この犬養内閣が最後の政党内閣になるわけだけど、政党がしっかり機能していたのは浜口の時代までだと思うわ」

保守美「確かに浜口は、枢密院と軍令部の反対を押し切って軍縮を成し遂げましたね。内閣総理大臣が軍部の反対を押し切って、これだけ主体性をもって1つの政策を実現したという例は、昭和期には浜口以外にいなかった気がします」

リベ太「そうだね。『戦前の日本には本格的な政党政治は根づかなかった』と結論付けている歴史家もいるけど、前回左代子が指摘したとおり、僕は浜口内閣は政党政治の完成形だったと思っているよ。東京駅でのテロさえなければ、浜口内閣はきっと長期政権になっていたはずだ」

右比古「だが、その政党内閣を滅ぼした原因は、軍部や右翼のテロだけだったとは言えないぜ。浜口の容態悪化の原因は、立憲政友会が無理に浜口を議会にひきずり出したことにあるだろ? そもそも統帥権干犯問題を大きく取り上げたのも立憲政友会だったじゃねえか。しかもあんな大乱闘で国民の支持も失っちまった。つまり政党政治の申し子だった浜口を滅ぼしたのもまた、政党なんだよ。軍部ばかりが悪いと言われがちだが、政党も十分ひどくて、むしろ政党は政党同士の抗争によって自滅した面もあったと思うぜ」

史織理「軍部だけが悪かったとは言えないんですね……」

左代子「右比古の言い分はよく分かるけど、だからといって右翼や軍部の悪行が打ち消されるわけじゃないわ。首謀者と共犯者の罪の軽重を逆転させて評価するのはおかしいわよ」

まとめ

保守美「というわけで、浜口内閣がこれで終了しました。政党政治の時期が終わり、次から満州事変という大きな時代の転換が起こります。今日で『昭和史第1部・完』といったところでしょうか」

史織理「ありがとうございました! 既にお腹いっぱいな分量でしたね」

リベ太「最後に、浜口内閣の覚えるべきことをもう一度チェックしておこうか」

1 憲政の常道に従って、立憲民政党総裁の浜口雄幸が組閣した。
2 井上準之助蔵相のもとで緊縮財政を取り、金解禁を行った。このとき、新平価解禁でなく旧平価解禁を取った。
3 軍縮会議に首席全権・若槻礼次郎を送り込み、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。その条約の批准をめぐって、統帥権干犯問題が起こった。
4 浜口首相は東京駅で右翼青年に狙撃され、その傷がもとで翌年死去した。

右比古「まとめると、たったこれだけなんだがな」

左代子「もうちょっと、話の進め方を速めた方が良いわね」

保守美「……努力します」

リベ太「ではまた来週! 次回は満州事変編スタートだね」

ここまで来るのに、当初予想していたよりも倍の時間がかかっております笑。あまり詳しく掘り下げ過ぎると良くないなあ。
受験生にも楽しめる昭和史を目指して、引き続き頑張ります!

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