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30年日本史00707【鎌倉後期】霜月騒動

 安達泰盛と平頼綱の対立が日に日に深まる中、泰盛は新たに発令した法令の中に
「御内人は得宗への奉仕と礼節を全うすること」
との一文を載せました。一見普通の内容ですが、要するに「御内人は幕府の公務には介入するな」ということです。明らかに頼綱への牽制が目的でした。
 安達泰盛からの牽制を宣戦布告と受け止めた頼綱は、武力闘争に打って出ます。
 弘安8(1285)年11月17日。頼綱は貞時に
「安達泰盛の子・宗景(むねかげ:1259~1285)が将軍位を狙っています。『曽祖父の安達景盛は頼朝公の隠し子であるから、自分にも将軍位の継承権がある』などと吹聴しているようです」
と報告し、泰盛・宗景父子を討つことにつき承認を得ました。
 頼綱が兵を集め、鎌倉中が騒がしくなってきたことに疑問を感じた泰盛は、正午頃に貞時邸に出仕しましたが、そこで殺害されました。
 当主を殺された安達一族は激怒して兵を挙げ、鎌倉のあちこちで激戦となりました。しかし安達勢はあらかじめ潜んでいた頼綱方の伏兵に次々とやられていき、泰盛の子の宗景も戦死しました。最終的に安達勢500人あまりが殺害されたり自害に追い込まれたりしたといいます。11月に起こった戦乱なので、これを霜月騒動といいます。
 この事件の影響は九州にまで波及しました。泰盛の次男・安達盛宗(あだちもりむね:?~1285)は元への警戒のため九州防備の仕事に当たっていたのですが、一族が殺されたと聞いて激怒し、盟友の少弐景資とともに頼綱打倒の兵を挙げました。
 ところが、少弐景資はかねてより兄・経資と所領争いのため対立しており、経資は頼綱方につきました。経資は景資の居城である岩門城(いわとじょう:福岡県那珂川市)を包囲してこれを陥落させ、安達盛宗・少弐景資はともに戦死しました。九州においても安達一族が敗北し、平頼綱が勝利したのです。これを岩門合戦といいます。
 頼綱は最大の政敵を滅ぼし、安達・少弐の莫大な所領を手に入れることとなりました。これが恩賞として御家人たちに与えられ、不満を一時的に解消することができました。
 鎌倉幕府は、九州の所領を監督するために「鎮西探題」という役所を設置し、九州支配をより強化しました。しかし、これは抜本的な解決にはならず、幕府を多少延命するのに成功したに過ぎませんでした。
 これ以降、平頼綱は絶大な権力を手にして、逆らえる者はいなくなりました。公家の正親町三条実躬(おおぎまちさんじょうさねみ:1264~?)は、日記「実躬卿記」に
「城入道誅せらるるの後、彼の仁、一向執政し、諸人恐懼の外、他事なし」
(泰盛が誅殺された後、頼綱は専制を極め、皆これを恐れて何もできなかった)
と記しています。

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